TITLE : 巨人軍かく勝てり V9達成の秘密 〈底 本〉文春文庫 昭和五十八年三月二十五日刊 (C) Takeyo Makino 2000  〈お断り〉 本作品を「文春ウェブ文庫」に収録するにあたり、一部の漢字が簡略体で表記されている場合があります。 また、差別的表現と受け取られかねない表現が使用されている場合もありますが、作品の書かれた当時の事情を考慮し、できる限り原文の通りにしてあります。差別的意図がないことをご理解下さいますようお願い申し上げます。 〈ご注意〉 本作品の全部または一部を著作権者ならびに(株)文藝春秋に無断で複製(コピー)、転載、改ざん、公衆送信(ホームページなどに掲載することを含む)することを禁じます。万一このような行為をすると著作権法違反で処罰されます。 目  次 初めてあかす巨人戦法 新人はかく鍛えられる 巨人式人事管理と考課 キャンプ、四つの目的 罰金、勝つための法律 弱い巨人がなぜ勝てた ミーティングその全貌 V10は可能であった! ああ、ベロビーチ物語 V9達成のための投資 コーチ業は中間管理職 わがブロック・サイン 三塁コーチのスパイ術 投手、この孤高の人種 ローテイションの秘密 ドラマは無死一塁から 忍者走法のテクニック とかくファン気質とは スーパースターの条件 人間・川上哲治の素顔 人間・長島茂雄の素顔 人間・王貞治の素顔 人間・森昌彦の素顔 あ と が き 章名をクリックするとその文章が表示されます。 巨人軍かく勝てり ──V9達成の秘密── 初めてあかす巨人戦法  昭和49年11月29日、私は熱海の後楽園ホテルにいた。その日は巨人の納会だった。  納会というのは、プロ野球の社会では一年間の最終の公式行事である。いわば球団の大晦日で、私には巨人最後の夜だった。十三年間お世話になった巨人のユニフォームを脱ぐ時がきたのである。  正力亨オーナー、川上さんの挨拶がすんで、長島新監督も簡単に挨拶をした。あとは酒を酌み交して一年間の疲れをとるのである。  V10成らず、監督交代と、巨人は激動の一年だったが、宴会はいつものように賑やかで、二軍の若い連中が早くも舞台に上がって得意のノドを聞かせていた。V10の成らなかった口惜しさは、長島新監督の誕生でどこかに吹き飛んでいた。  川上さんも飲んでいた。たちまち髪のはえ際まで赤くして、声高に喋っていた。  私も飲んだ。だが一向に酔わなかった。少しアルコールが入ると私は頭の回転がよくなり口も滑らかになるのだが、頭のシンが醒めるばかりで、どうにも調子が出なかった。私は巨人に入って、初めて寂しさを感じていたのだった。  私は川上さんにソッと訊いた。 「監督、監督は寂しくないですか」  川上さんは、ニコリともしないで、 「寂しいさ。でもそれよりホッとした感じの方が強いな」  といってまた酒を飲んだ。  私の寂しさの中には、もうこれで勝負に一喜一憂しなくてすむというホッとしたものと、これからの自分がマスコミ界でやっていけるのだろうかという不安とがないまぜになっていた。  ユニフォームを着ている自分には誰にも負けない自信がある。だが、脱いでしまった世界にあるのは不安だけである。  私が初めて川上さんに、 「監督と一緒にやめる」  といい出したのは、まだ暑いころのことだった。私がそういうと川上さんは、 「お前がやめるとオレがやめにくい。二人一緒にやめたのでは巨人軍に申し訳ないじゃないか」  と困ったような顔をした。しかし私は重ねて、 「極端にいえば、私は監督に拾われたのだから、監督と一緒にやめますよ」  といった。すると川上さんは、 「それでは困るのだよ」  とまたいった。  こんなやりとりがあってから秋になって、私の耳に、牧野がやめる、という噂が入ってきた。それと同時に、私の去就をめぐって二つの極端な意見が流れてきた。  ひとつは「巨人に残るべきだ」という意見だった。これは長島ファンと思われる人たちからだった。私がそういう人に、 「なぜだ?」  と訊くと、 「お前がいなくなると長島がドロをかぶることになる。だから残って手助けしてやるべきだ」  というのである。  私は聞いていて、長島に失礼なことをいうと思った。ドロをかぶるといういい方の底に、長島が監督として失敗するから可哀相だという評価があるように思えたからである。  川上さんが監督になった時も同じような見方があったと聞いているが、野球でもなんでも「感じ」で評価してはいけない、評価はあくまでも「結果」に対して下すべきものだと私は思っている。  もうひとつの意見は「やめるべきだ」というもので、これは「内閣の首班が代るのだから閣僚も代るべきだ」という一般社会と同じような見方だった。  私自身は、もし私が残ったら長島がやりにくいだろうと考えていた。長島は何をやっても常に「牧さんはどう思うかな」と思うことになるだろうと考えた。  これがコーチ同士できた関係ならそういうことはないのだが、コーチと選手の関係できて、選手だったのが一挙に監督になるのだから、長島がいくら有能であっても、私の存在は気になるものなのだ。  私はこの点と、川上さんに拾われた男だという事実との二つの理由によって、巨人をやめる決心を固めた。  川上さんに拾われたのだから、などというと、いささか古い日本人的心情といわれるかもしれないが、実際に私は川上さんに拾われたのである。  それは十三年前の36年のことであった。その前の年で中日のコーチをやめていた私は、デイリースポーツ新聞で評論家をやっていた。東京地区の担当だったので、セ・リーグ、とりわけ巨人のことを書いていた。川上さんの監督一年目である。  私が中日のユニフォームを着ていて試合でぶつかった巨人は素晴しいチームだった。技術のレベルは高いし野球を知っている。そのすごい迫力は、いうならば“黒い旋風”とでもいう威圧感であった。  ところがネット裏で客観的に巨人を見てみると、なんだこんなことも出来ないのか、あんなことも知らないのか、と見えてきた。“黒い旋風”は黒い線が強調されたユニフォームのせいだったのではないかとさえ思われた。新監督の川上さんは、やりたいことが出来なくてイライラしていることだろうと感じた。そこで、気がつくままに書きまくった。  そんなある日、巨人の山崎マネジャーがやってきて、 「川上監督が呼んでいる」  という。私はとっさに叱られるのだなと思った。そうでなければ私になど用のあるはずがない。  それまで私は川上さんと個人的なおつき合いはほとんどしていなかった。中日のコーチ時代に東京の碑文谷《ひもんや》に住んでいたが、そのとき使っていたガソリンスタンドでときどき川上さんと顔を合わせた。川上さんも同じスタンドを使っておられたためだった。いま思えば、あのガソリンスタンドが川上さんとの初めての私服の出会いの場ということになる。  そんな関係で「今度名古屋で一緒にゴルフをやろう」といわれて、東山ゴルフ場で川上さんと中上さん(英雄、当時巨人コーチ)の三人で一度だけラウンドしたことがあった。それだけのおつき合いだった。  その川上さんが呼んでいるという。たとえ叱られるのであっても行かぬ訳にはいかない。おずおずと川上さんのところへ行った。  行くと川上さんは、いきなり、 「内野コーチとしてきてくれんか」  といった。私は吃驚《びつくり》仰天した。それまで私にとって巨人はコンプレックスの根源であり、羨望の的であり、ましてコーチなどは高嶺の花だった。私だけではない。プロ野球の選手はみんなそう思っている。  私は慌てて、 「そんな大それたことは無理です。巨人のコーチになる資格なんてありません」  と断わった。すると川上さんは、 「オレは守りの野球をやりたい。そのためにはいまコーチを兼ねている広岡(達朗)を実戦一本でやらせたい、そうしなければ守りの野球はやれない。しかしそうなると守りのコーチがどうしても必要になってくるのだ」  と誘いの理由を語った。  川上さんからの誘いはしつこくそのあと三、四回きた。私は真剣に考えざるを得なくなってひとに相談した。  最初に明大—中日時代の先輩であり監督だった天知俊一さんに相談した。天知さんは、 「きてくれというなら行け」  といった。  この人は監督のころ、私たち選手に、 「川上に会ったら掌をとっくり見せて貰え」  といつもいっていた。川上さんの右の掌にはソラ豆大の黒いバットダコが三つも四つもついていた。それを見せて貰えというのである。また試合前のバッティング練習でも、川上さんの練習だけは全員が見させられた。天知さんは川上さんを尊敬しておられた。  天知さんの次に、当時中日新聞の論説委員をしておられた小山武夫さんに相談した。小山さんには、 「中日もやがて新しい体制になるだろうが、巨人から誘われたとは名誉なことではないか。行って、しっかりやりなさい」  といわれた。  ようやく私の決心が決まって、川上さんに、 「二軍の若い人の面倒をみる手助けをさせてください」とご返事したのだった。  そして36年7月25日、川上さん立ち合いのもとに就任発表をした。どうしてこの日を覚えているかというと、それは私の満三十一歳の最後の日であったからである。  さて、巨人に二軍コーチとして入ったが一軍へも顔を出せという。私は昼間多摩川グラウンドで二軍をみて、夜は一軍の球場へ駆けつけた。一軍といっても試合が始まるとスタンドヘ上がるのだ。私が一軍のベンチに入ったのは、その年の日本シリーズが初めてだった。  私はそういう生活をしながら、一冊の本を繰り返し読んで、丸暗記した。アル・カンパニスの著した『ドジャースの戦法』という本である。  というのは巨人はこの年の春、アメリカのベロビーチヘ行ってドジャースとともにキャンプをやってきていた。ドジャースの戦法も勉強してきたはずである。だが私は行っていない。川上さんのやりたい守りの野球がこれなのだから、丸暗記でもしなければコーチはつとまらないではないか。  そのうえ私は若僧で、現役時代の実績も乏しく、しかも外様である。勉強しなければ、とてもやっていけない。必死だった。  翌37年私は一軍コーチに昇格。8月、ヘッドコーチの別所さん(毅彦、現解説者)がユニフォームを脱いだ。  私がチーム全体に口を出せるようになったのは、この時以後のことである。  私の責任は重くなった。そこでアメリカヘ勉強に行かせてくれと申し出た。それが許可されて38年の春、私は中尾さん(碩志)とともにベロビーチヘ派遣された。  ベロビーチでみっちりドジャース野球を勉強してきた。いや、実は勉強というより、私がこの渡米で得たものは、私が丸暗記して理解していたことが間違っていなかったという確認だった。理解のうえに立って戦法を日本人向きにアレンジ出来たことだった。  これが大きな自信になった。その自信は私の巨人における存在の自信につながった。川上さんの全面的なバック・アップに助けられて、外様であることや若いことを忘れて、自信を持ってドジャースの戦法を指導出来るようになった。38年から約五年間は、死にもの狂いで没頭した。  戦法の定着化をはかる舞台はキャンプである。私は川上さんに進言して、チームプレーの練習を一番暖かい陽光の輝いている午前中に移した。  それまでのキャンプといえば、ウォームアップ、トスバッティングのあとすぐ打撃練習。守備練習は付録みたいに最後にやるのが定石になっていた。それを百八十度転換して、守備のチームプレーを一躍“陽の当たる場所”へ持ってきたのだ。  選手は意外な顔付きをしたが、チームプレーの重要性を理解させる方法論として、これは効果があった。  私は、打撃は野球において最も意外性に富む部門だと思っている。いい替えれば打撃はキャンプでいくら打っても勝利にはつながらない。しかし守備は、個々の守備もチームプレーも練習すればするだけ確実に技術が高まるし、出来上がったものはそう易々とこわれず、勝利に直接的につながっている部門だと思っている。  私はこの確信に基づいてチームプレーの組織化に邁進《まいしん》した。朝のミーティングで説明し、グラウンドでやって、夜のミーティングで反省する。連日連夜やりまくった。私は自宅の部屋の壁に等身大の鏡をハメ込んでブロックサインの練習と研究に余念がなかった。  こうして会心のチームプレーで勝った日はフトンの中で一人クスクス笑いをした。巨人のV9はこのようなファンデイション(下地)があってこそ打ち樹てられたのである。  巨人の監督は長島新監督へと引き継がれたが、49年11月上旬のメッツ戦のさなかに、私は長島監督と二人だけで話し合う機会を持った。そのとき長島監督はピッチングコーチに宮田征典君を予定しているといった。 「“八時半の男”といわれていた当時、宮田はいつも、この一球を打たれたら巨人は負けだというピンチにリリーフし、一球一球に全力を集中していた。ボクはいつもその姿をサードベースから見てきたんです。あの精神力を、いまの投手陣にうえつけることができるのは、やっぱり宮田しかいない」  これを聞いて私は驚き、これなら心配がないと確信した。これだけ聞けば十分であった。  新しい巨人はV9の時代に比べれば戦力的には見劣りがする。だが水原—川上のバトンタッチの時もそうだったのだ。  巨人は戦力がなければチームプレーで甦り、勝ってきたのである。  長島の時代も恐らくそうなる。V9のコーチをつとめてきた私はそう信じている。チームプレーというファンデイションが体制として定着している以上、巨人は再び覇権を奪回するに違いない。  私はこれから「V9の秘密」を書く。  私のことを書くのではなく、巨人野球の全貌を明らかにする。それがV9の証人としての私のつとめだと思っているからである。 新人はかく鍛えられる  何事も最初が肝心である。  巨人では、新人選手が入ってくると、まずその選手の「鼻っ柱」を叩き折る。これが「巨人の躾」の第一条なのだ。  この教育はいつでもどこででも行なわれるが、主として二軍合宿所が教育の場所となる。だから新人選手はみな合宿に入る。これが正規のルートである。  50年に巨人がドラフト一位に指名した定岡も、もちろん二軍合宿所からスタートする。王も柴田も、堀内もみんなここからスタートしている。  V9メンバーのうちこのルートを経ないで一軍に上がった例外の選手は、土井と高田、それよりずっと前の長島くらいのものだ。  巨人に入ってきた新人選手は、他チームに入った選手より比較にならない人気者になる。マスコミがジャンジャン書きたてて、実力をはるかに上回る人気者に仕立てられる。  選手はいきおい、人気を実力と錯覚して、天狗になる。放っておくと天狗の鼻はますます高くなって手がつけられなくなる。この鼻を叩き折って躾を施さなくてはいけないのだ。  私はかつて、入団にさいして自分の手がけた選手について、 「あれはすぐ一軍キャンプに連れて行きましょう」  と川上監督に提案したことがあるが、監督に「2月いっぱいはダメだ」とピシャリとやられた。  2月のキャンプは一軍が宮崎市、二軍は都《みやこ》 《の》城《じょう》市で行なわれてきたが、どんなに短くてもキャンプ中は新人選手の研修期間なのである。もちろん、鼻っ柱を叩き折り、しつけることのほかに、一軍で使える選手を選別する期間でもある。  さきほど私は、高田には二軍の経験がないといったが、それは正確ではない。彼も二軍で鼻っ柱を折られている。  高田が入団したのは42年だった。巨人はこの年台湾キャンプをやった。彼は即戦力だから台湾へ連れて行った。  この新人は練習は熱心だし、紅白戦に出せばヒットは打つ、盗塁もうまい、サインプレーもすぐ覚える。守・走・攻のすべてにわたって優秀である。  だからこそ川上監督も私も、内心困ったものだと思っていた。彼に多摩川の味を味わわせる「きっかけ」が見つからないのだ。 「プロなんてこんな甘いものか、と思ったら将来の彼のためにならない。なんとかして二軍へ落としたい」  と私たちは話し合ったが、きっかけがないままにペナントレースがはじまって、広島球場へ遠征した。  そこでやっと、二軍へ落とす格好の「きっかけ」を見つけたのだ。  高田はレフトを守っていた。ショートは黒江である。打球が黒江の頭上に上がった。 「オーケー」  と黒江が声を出した。ところが上空の風でボールが黒江の後方へ落ちた。  そのとたん、ベンチで川上監督が、 「これだ!」  と指を鳴らした。  チェンジになって帰ってきた高田に川上監督のカミナリが落ちた。 「お前はそれでもプロか! 風があるのになぜ前進してバック・アップしないのか。すぐ多摩川へ行け!」  マネジャーに切符をとらせて、翌日、高田を東京へ帰した。  私はすぐ二軍監督に電話して、 「練習態度をよく観察してくれ」  と頼んだ。  二、三日して、私たちは二軍からの報告を聞いてニンマリした。高田の練習態度が非常によいのである。  普通、こういうケースで二軍へ落ちた選手は、奇妙なことに「カゼをひいて」二、三日休むことになっている。気落ちして本当にひくのもいるし、仮病のもいる。  ところが二軍監督は、 「カゼをひくどころか元気一杯、一生懸命やっている。非の打ちどころがないですよ」  といっている。  高田は三日間で多摩川から這い上がってきた。彼は後日、私に「あれが本当にききました。いいクスリになりました」と述懐したが、私たちはこうやって高田の鼻っ柱を折り、彼の「本性」を見きわめたのである。  一般社会でも上役が部下について、裏表のある人間かどうかを見きわめることが管理上必要なことだと思うが、野球の世界でもそうである。  選手に裏表があるということは、必ず誰かを意識しているということなのだ。それはつまり「あいつが悪い」と思うことであって、そう思うことで自分を正当化する「いい訳」につながる。これは、チームプレーにとって最も有害なことである。  投手なら、打たれると、 「オレはカーブを投げたかったのに、捕手がストレートのサインを出したから、あいつが悪い」  逆に捕手は、 「外角低目へ投げろとサインを出したのに、内角へ投げやがって」  と互いに自分を正当化する。エラーが出て負けると、 「ちゃんと取っていれば点が入らなかったのに」  いわれた選手は、 「こんなところへ打たせるのが悪い。オレを責めるのなら、三振に切って取れ」  まだほかにもいくらでもある。「実は下痢をしていまして」、「マウンドが軟弱だったもので」。  野球には、実にこの手のことをいいたくなるケースが多い。多いからこそ、口に出したらチームワークはおしまいである。  大リーグでは、いい訳をしないという合言葉に「ノー・アリバイ」というのがあって、誰かがいい出しそうになると、みんなで「ノー・アリバイ」といい合っている。  さて、高田の場合は精神面での教育だったが、技術的な悪いクセを徹底的に直すことによって鼻っ柱を折るケースもある。  土井の場合がこれだった。  彼は六大学では一流のショートとして入団してきた。グラブさばきは実に素晴しかった。  だが、捕球の仕方に悪いクセがあった。ゴロを右足寄りでつかんでいたのである。肩も、ショートとしては弱い、と私は見ていた。  この土井をショートで使うか二塁に回すかがコーチ会議の議題になった。私は二塁手がよいと発言した。そして、 「しかし、いまの捕球の仕方ではエラーする危険がある」  と指摘した。川上監督は、「では、その悪いクセをすぐ直せ」といった。  ところが土井には長年それでやってきた自分の体験がある。なかなか判ってくれない。私は、理論で説明して納得させた。頭で判っても悪いクセは直しにくい。毎日毎日、何百回も練習して、やっとゴロの捕球は左足のツマ先線上の内側で、という“お手本”どおりの捕球を身につけさせた。  最初の土井のようにやっていたのでは、視線がボールから逃げてエラーしやすいのである。  六大学一だった土井は、自分のやり方を捨てて、右ヒザを地面にくっつけて取る練習を続けている間に鼻っ柱を折られた訳だが、のちにインサイド・ベースボールを含めた守備で日本一の二塁手になった。  長島監督のもとでコーチ補佐になった黒江も荒川コーチに鼻っ柱を折られて一人前になった。  私は彼を採用するかどうかで、熊谷組の補強選手として出場しているところを見に行った関係上、彼が成功するかどうか気になっていた。  黒江はノンプロの三冠王で、アッパースウィングで活躍していた。  ところが荒川コーチは「ダウンスウィングにしなければプロのスピードについていけない」という。それを耳にした私は黒江に「打法を切り替えろ」といった。  しかし、素直に受け入れられない。他球団へ行った連中はそのままやっているし、「オレにはオレのやり方がある」と頑強だ。その結果、一年間を棒にふって、やっとそのシーズンオフに、気がついた。  そこで、私が荒川コーチに話をして、見てもらうことになった。  黒江は一旦こうと決めるとまっしぐらなところがある。毎日荒川コーチの家へ通った。本当に毎日だ。暮れの三十一日も元日も行った。  荒川さんという人は、浅草育ちの江戸ッ子である。若いころ浅草の盛り場で盛名をはせたというが、さっぱりした気質と、日本古来の武士道的な考え方をする人である。  少年時代に王を見出し、巨人に入って熱血的に育てたのはあまりにも有名だが、王のほかに「荒川道場」で育った選手は多い。森、黒江、末次、槌田らはその代表的な選手である。 「荒川道場」というのは、当時住んでいた鷺宮《さぎのみや》の自宅の庭にネットを張って、そこへ選手を通わせてバットを振らせた、寺子屋的指導のことである。この道場には正月もシーズンもなかった。王も黒江も、元日に行って一パイご馳走になってすぐ素振りである。その途中で、 「ちょっと年始に行ってくるから、そのまま続けていろよ」  といい置いて出かけて行って、二時間も三時間も帰ってこない。その間じゅう王も黒江も素振りを続けるのである。帰ってきてコタツにあたって、訪ねてきた人と話などしている。  二人はフラフラになって、掌から血を流して振っている。と、突然、 「それだ! いまのスウィングが本ものだ。それを忘れるな!」  と座敷のなかから怒鳴る。怒鳴られた方は半ば失神の無我の境地。ハッと我にかえってひっくり返ったことも間々あったと聞く。  こういうことを繰り返しながら、真剣を振らせてワラを切らせ、合気道を教え、しまいには王を、割り箸で名刺を一刀両断出来るまでに仕込んでいくのである。  好んで読む本が『親鸞』であり『宮本武蔵』。『巨人の星』の星一徹とはまた一風変わった行者のような打撃コーチであった。  黒江はこの荒川さんについてバカになってバットを振り続けた。その努力が、広岡故障のとき代りに守って認められて、そのままレギュラーになった。  努力といえば、王は宮崎のキャンプの時、よく私に「長島さんは何回素振りした?」と訊いた。私が「百本だ」というと「よし、それでは二百本振ろう」といって本当に二百本振っていたものだ。  巨人では、一度はバカになったものだけがレギュラーになれるのだ。選手をバカにするためには、鉄は熱いうちに打てのたとえどおり、最初のうちに鼻っ柱をヘシ折ることが最も有効なのだ。  二軍や合宿は、その役目を持っている。そして同時にここで「巨人の躾」も教えることになっている。  現在、合宿所は東京都と川崎市の境にある「よみうりランド」の一角に建っている。鉄筋四階建ての立派なものだ。その前は多摩川べりにあった。  この合宿所に再び寮長に戻った人で武宮さん(敏明)という人がいる。  武宮さんはかつて鬼寮長といわれたが、ものすごく怖がられている反面、選手たちに一番人気のある人でもある。川上監督の熊本工業の後輩である。  彼の口グセは、 「両親から大事な息子たちを預かっているのだから、ワシは選手を自分の息子だと思っている。だからワシは、怒らないで叱りとばす」  と、竹刀などを持って愛の鞭をふるった。愛の鞭をふるえるということは、大変なことである。門限、礼儀作法など当然なことを守らせるのだが、武宮さんと選手たちの珍談奇談は数多い。が、ここではそれが本旨ではない。  私は本来、野球選手に躾も行儀も必要ないと思っている。選手は技術を売ればよいのだからである。  だが、「巨人の選手」には必要なのだ。巨人の選手は入団しただけで実力をはるかに先行した人気者になる。四六時中マスコミの注目を集めている。子供たちのアイドルでもある。  パ・リーグの強打者よりも巨人の控え選手の方がよくテレビに映り、活字になる。有名人だ。巨人の選手というだけで信用される。  いったい誰のおかげなのか。ひと言でいえば、それは「巨人の伝統」のおかげである。  巨人のユニフォームの輝きと重さを自覚し、プライドと感謝の心を教えるのが巨人の躾である。  マスコミに取り上げられて有名になり、信用されるのは「お前」でなくて「巨人」なのである。たえず、巨人があって自分がある、全体があって個があるのだという自覚と、感謝の気持ちを持てということである。  巨人の勝負の仕方は厳しい。勝つためには本人の意志など全く無視した起用をする。  たとえば四回の二死、あと一人打ち取れば勝利投手になれる、というような時でも、交代させることが勝利につながるなら、スパッと交代させる。「もう一人だから投げさせてやろう」という温情や妥協はいっさい介在しない。  川上さんはマウンドヘ行かず、直接主審に交代を告げる。交代させられた投手はカッカと頭に血をのぼせて、ベンチヘ帰ってくる。  こういう時、投手が若手の場合は一定時間ベンチに止めておいて、ロッカー・ルームヘは帰さない。 「お前の不始末をみんなで修正しているんだ。ここにすわってみんなを声援しろよ。それがお前の義務なんだぞ」  と、ベンチの最前列にすわらせて声援させる。全体があっての個であり、感謝の気持ちがチームプレーの基本だからである。  だが、これにはもう一つの理由がある。  頭に血をのぼせたままロッカー・ルームヘ行かせたのでは、待ち構えているマスコミにつかまって、何をいい出すか判らない。マスコミは巨人のことといえば、何でも大々的に取り上げる。頭に血がのぼった勢いで何かいおうものなら、ワッと書き立てる。だから頭が冷えて反省するまでベンチヘ置いておくのである。  川上監督が試合に熱中してしまって「もういい」というのを忘れたこともあったが、ベンチを出る許可は監督だけが与えられるのである。  命令を下せるのは監督だけである。勝負は、勝つか負けるか、一寸先が判らない。その場合、正しいのはあくまでも指揮官である監督の判断であって、選手はそれに従うことだけが正しいことなのである。  こういう「巨人の選手」の基本的なことを、新人のうちに教え込んでしまうのである。 巨人式人事管理と考課  巨人の新人選手がどのように管理・教育されているかについて述べたが、ここでは、そうやって一軍のゲームに出るようになった選手が、どのように管理・評価されて年俸が決まるかについて触れてみたい。  グラウンドに出た選手は、技術と能力を発揮し、チームプレーを守って、チームの勝利のために奮戦する。  その働きに応じて来季の年俸が決められるのだが、この「働きの評価」のデータが、いわゆる「貢献ポイント」というものである。年末の契約更改のころによく新聞で取り沙汰されるから、ご存じの方もいるだろう。  これは、三割とか二十勝とかいう表面上の数字とは違って、プレー上のあらゆるものを総合的にとらえたポイントだ。  二年連続三冠王になった王が20万ドルプレーヤーになったのは、三冠王になったからではなくて、何百万円のアップに相当する「貢献ポイント」をマークしたからこそ、6000万円という大金をもらえるのである。  このポイントは42年ごろまで川上監督が一人でつけていたが、「どうもイメージでやってしまう。もっと正確にやる方法はないか」と相談を受けた私が、大リーグ方式を参考にして考え出したものだ。  その後、他球団の多くが次々に採用して、いまではほとんどの球団が、巨人と似たような貢献ポイントを作るようになった。  昔は、球団の提示額がドンブリ勘定的で、不満な選手がオーナーに直訴して上げてもらったり、いわゆる“ゴテ得”が横行したものだった。球団側に確固としたデータがなかったためである。  巨人で「貢献ポイント」を作る作業に参画している現場組は、監督以下の一軍各担当コーチだが、私がやっていた時は、投手は中尾、打撃は山内、走塁は須藤の各コーチで、私は守備を担当しながら、各コーチの採点をもう一度チェックして監督に提出していた。私の提出した採点を、監督が自分の考えを加えて修正して仕上げ、球団の一軍担当の佐伯常務に提出する。  この作業は、開幕の第一戦から公式戦の最終戦まで、全百三十試合にわたって行なわれる。  評価というものは、年間を通して満遍なく、公平に行なわなくてはいけない。  たとえば49年10月12日、中日優勝の日、新聞は決勝打を叩いた高木守道を貢献度の第一等に上げたが、巨人にいわせれば、開幕第一戦の決勝打も優勝決定の一打も、チーム貢献度という点ではまったく同じなのだ。  では、巨人の貢献ポイントの実際を具体的にみてみよう。  ここに一枚の半紙大の紙がある。全選手の名前と、たくさんの評価の項目欄が印刷してある。  項目は、投手を例にとると次のように分けてある。  勝敗 イニング コントロール スピード スイフト 変化球 コンビネーション 気力 へッドワーク チームプレー 守備 総合  この項目はさらに二つに分かれている。一つは「技術」であり、もう一つは「貢献度」である。  野手にはもっとたくさんの項目があるが、これに担当コーチが試合ごとにプラス、マイナスの点数をつけていく。この点数に、監督が修正を加える。これをもう一枚の用紙に整理する。  この紙は選手の名前のところに線が引いてあって一方はプラス、もう一方はマイナスとしたシンプルなものだ。  こういうのが一年間に百三十試合分出来あがる。そのトータルが、ある選手はプラス何点、ある選手はマイナス何点と出る。これが世にいう「貢献ポイント」の出来るまでである。  では次に、各コーチがどうやって点数をつけるかを説明してみよう。 〈投手〉  各コーチは一つの基準を持っている。それは選手の前年度の実績からみた実力である。それを10点満点とする。  たとえば堀内なら、完投して3点以内に抑える、これが堀内の10点。関本には関本の前年度の実績が10点となる。だから同じ10点でも内容は各人それぞれに違う。  堀内が3点に抑えたとすれば、彼のベストの実力に比べて、今日のストレートはどうだったか、変化球は、ヘッドワークはどうか、コントロールはどうか……と項目に従って点検していくのである。これは勝敗に関係なくやる。  この投手コーチの採点に監督が自分の目を加えながら「×月×日・堀内の貢献ポイントはプラス1」というようにまとまるのだ。 〈打者〉  ある打者は4打数ノーヒットだったが、打球をいずれもバットの真芯でとらえていた。この場合「技術」はプラス、しかし「貢献度」はマイナス。  よけたバットに当たってヒットになった。これがきっかけでゲームが勝った。これは「技術」がマイナス、「貢献度」ではプラス材料。  末次がヒットを打った、だがケン制アウトになった。「技術」プラス、「貢献度」マイナス。  王がホームランを打った。これはプラスの象徴だ。両方ともプラス。たった一人で最少でも1点を取るのだから大変なことだ。  土井がバント、犠飛、これもプラスの象徴だ。自分を犠牲にしてチームにつくすことはチームプレーの要諦だ。  満塁でタイムリーを打つ。もちろん両方ともプラスだ。だが、われわれはその選手だけをヒーローにしない。誰も走者がいない時に出塁した最初の選手の貢献度を認めるし、次に続いた選手、その次に粘って相手投手の力をそいだ四球の選手も、みんなプラスだ。  大差がついた九回二死から打席に入った。ヒットを打っても、もう勝敗に関係ないと、無駄打ちすれば「技術」「貢献度」ともマイナス。  たとえ無駄だと思っても一生懸命ヒットを打てば「技術」にプラスがつく。勝利にはつながらなくても、技術は技術で評価するのである。  とにかく一打席一打席のことごとくをチェックしている。いや一打席どころか一球一球チェックするのだ。 〈サインプレー〉  サインプレーがそれである。  走者が出た。さあ、次打者河埜にサインが出る。「ヒット・エンド・ラン」のサインだ。これは「ジス・ボールを安打せよ」という難しい命令である。  打者は安打を打てなかった。だが内野ゴロを打って走者を進塁させた。この場合、打率を下げるかもしれない難しい条件のもとで走者を進めることに成功したのだから、バントと同じ評価をして「貢献度」はプラスである。  今度は「待て」のサインが出た。  これはどんな好球がきても打ってはいけないのだ。0—2から「待て」のサインでストライクを取られて1—2になった。その後、再び「待て」のサインが出て2—3のカウントになった。  そのあげく凡退した。凡退したのだから「技術」「貢献度」ともマイナスのはずだが「待て」のサインが出ていたのだから、1点マイナスではなく0・5のマイナスにする。  4打数ノーヒットでは本来ならマイナス4となるのだが、こういうケースが含まれている場合、「待て」が二度あったならマイナス3にするのである。  ベンチからのサインによる状況の設定をした時は、より的確な評価を下さなければいけない。そうでないと選手は、 「ヒット・エンド・ランのサインが出たら空振りしておけばいいや」  と、チームプレーを疎《おろそ》かにするようになる。  また評価は、イニングの早いうちも九回のギリギリのプレーにも公平に下しておかないと、 「大差がついたのだから、もういいだろう」  と、ダラダラしたゲームをするようになる。春の開幕戦の一勝も、秋の優勝決定の一勝も同じ評価というのと一緒である。  巨人の選手が、一年間いつでも全力でプレーし、大差がついて勝っていても、負けていても、決してプレーの力を抜かないのは、こういう評価のたまものである。 〈守備〉  守備についていえば、柴田がファインプレーした。  スタンドは「ファインプレーだ」と大騒ぎしている。だが私は、それが本当のファインプレーであるのかどうかを的確に判断する。  優秀な選手というものは、いつの場合でも次に起こり得る可能性を頭の中で予測して、自分のとるべき行動を考えているものだ。  ひた走りに走ってボールに飛びついて取った華やかに見えるプレーも、風を計算に入れていたか、打者のクセを計算に入れていたか、投手の投球種類・コースをよく見ていたか、によってまったくの凡プレーにもなるのだ。  本当のファインプレーはそういう条件、状況を考えて守備位置をとっていて、なお横っ飛びに取るプレーをいうのである。こういう真のファインプレーはもちろんプラスだが、そうでないものにはいくら喝采が集まろうと、よい得点は与えられない。  黒江がトンネルした。タイムリー・エラーなら「技術」「貢献度」ともにマイナスだが、チームに迷惑をかけないケースでのトンネルなら「技術」はマイナスだが「貢献度」ではマイナスにしない。  一死、走者一、二塁。味方は2点リードしている。打球はライト前に飛んだ。二塁走者がホームヘ突入していく。右翼手柳田は強肩の見せどころとホームヘ投げた。  ランナーとキャッチャーがホームベース上で交錯したがセーフ。その間に一塁走者は三塁へ達した。1点を返されて走者一、三塁。犠牲フライを打たれたら同点である。  この場合、右翼手がホームに投げずに三塁へ投げていたらどうなるか。1点は許したが走者は三塁へ進めず、一、二塁。そうすれば次の打者にフライを打たれても犠飛にならず、ダブルプレーで打ち取れば1点リードを守りきって勝てる。  つまり、瞬間のジャッジメントプレーでホームヘ投げた右翼手は「技術」でも「貢献度」でもプラスにならず、三塁へ投げる頭脳プレーを演じれば、間違いなく「貢献度」でプラスになるのである。  このように一投一打がコーチたちによって厳しく的確に評価されている。これの積もり積もったものが、鬼より怖い年俸を決める基準の「貢献度ポイント」になるのである。  前年度にマークした自分の能力(サラブレッドの持ち時計みたいなものだ)の限界をさらに上回るように努力すること、勝敗やイニングや季節に関係なく、いついかなる時も全力をつくすこと、チームプレーを完全に順守し、そしてプロとしてのプレーをすること。これが巨人軍選手としての評価を勝ち取る道である。  私たちコーチは、こういう考え方を選手に徹底させ、点検し、正しく評価する義務を負っている。  巨人の契約更改は俗に「コンピューター査定」といわれ、冷たい査定のようにいわれているが、とんでもない。  コンピューターは、私たち人間が真剣に作った百三十試合分のプログラムの点数を集計するための道具であるにすぎない。なんならソロバンでやったってかまわないのである。たまたま親会社の読売新聞社にコンピューターがあるから使わせてもらっているだけの話だ。  私が42年に川上監督や佐伯常務から相談を受けるまでの貢献ポイントは、どちらかというと打撃中心であった。それを私は打撃4、走塁3、守備3ぐらいの割合に直すよう進言し工夫した。  巨人がチームプレーを基本として戦うチームである以上、打撃偏重であってはならないし、ことごとくのプレーが年俸に反映するようでなくては公平でないと思ったからだ。  ただし、この「貢献ポイント」の点数が1点いくらと金額に直接スライドするものではない。  金額はこのポイントをもとに正力オーナー、代表、一軍担当常務らが検討して決めるのだ。  巨人の査定が冷たく厳しいという世評があるなら、それは基本データ作りに当たった私たちの目が、冷静で的確であったことの褒め言葉として受けとることにしておこう。  その私も、三年ほど前に来日したキューバのナショナル・チームのポイント表を見て、そのもの凄さに目をむいた。投手でも打者でも、どのコース、どの高さのタマを、どんなふうにして打ち、どう飛んだかなど、こと細かにいちいちチェックして貢献度をはじき出していた。  相手は社会主義国家のチームとはいえ、上には上があると吃驚したものだった。 キャンプ、四つの目的  松の内が明けると、プロ野球の自主トレーニングがまっ盛りになる。  自主トレは、キャンプヘの助走であり、キャンプはシーズンヘの助走である。いよいよ“球春”の訪れだ。自主トレは、読んで字のごとく選手一人一人が自主的にやるべき性質のものだが、自主にまかせているとロクなことがない。  2月1日のキャンプ・インの日に、蔵前の土俵から下りてきたような出っ腹がたくさんいたのでは困るのだ。  そこで日本では、1月の中ごろから半強制的に招集をかけて、みんなでまとまってトレーニングをする。  野球協約ではオフシーズンのチーム練習を禁止しているから、招集をかけた側の私たち幹部は、ユニフォームを着ないで私服で出かけて行って、名目上の自主を装うことになる。  自分たちがやってきてこういうのもなんだが、ごまかしである。だが、そうしなければ私たちの思いどおりのキャンプが出来ないのだから仕方がない。  その点、野球の先進国であり、選手のプロ意識が徹底しているアメリカとでは大変な違いである。アメリカでは、水泳、ゴルフ、バスケットやハンティングを楽しみながらトレーニングしているものも多い。ゴルフやハンティングでは、靴の底に鉛を入れて歩き回って足腰のトレーニングだ。  そうかと思うと、ヤクルトの安田のように店員をしたり、保険の外交員をして金を稼いでみたり、盗塁王のモーリー・ウィルスなどは、ラスベガスのナイトクラブでバンジョーを鳴らして稼いでいたものだ。  自主トレをしないでもウエートオーバーにならない自信のあるものは、ちゃんと金を稼いでいる。オフの間でも「プロの意識」を忘れない点では、さすがというべきか。  しかも、キャンプは2月の終わり頃から始まる。私が38年に渡米した時、日本では2月1日からするといったら、 「どうしてそんなに早くからやるのだ。日本の球団はよほど金持ちとみえる。もったいないことだ」  と目を丸くしていた。金があるからではなくて選手に自覚がないからなのだが、まったくアメリカに比べたら日本の選手は官費で温室に入れてもらっているようなものだ。  アメリカではキャンプ・インの日にウエート検査をして、オーバーしていると100ドル以上の罰金を取り立てるし、キャンプ一週間でゲームをやってフルイにかけるから、遊びほうけていたものは置いていかれるのだ。  こういう中で、私はモーリー・ウィルスに興味を持って注目した。  彼はキャンプにやってきて第一日、150メートルの全力疾走を五本走っただけだった。二日目、これにキャッチボールとトスバッティングが加わった。三日目、マシンバッティングが加わった。そして四日目にはもうゲームに出るではないか。  あまり簡単なので私は彼に質問した。すると彼は、 「ウエートの調整はちゃんとやってきてある。ボクのセールスポイントは走ることにある。だから全力疾走が出来るようになればゲームに出るのさ」  バンジョーをかき鳴らしながら基礎体力づくりもやっていて、キャンプでは自分の武器だけを調整する。これがアメリカの自主トレとキャンプの典型である。  さて、巨人のキャンプである。  キャンプの目的は大きく分けて四つある。一つは選手個々の基礎体力づくり。二つ目はチームプレーの強化。いわば選手間の連携プレーである。三つ目は教育。ミーティングを中心に巨人選手としての修練道場だ。そして四つ目が個々の技術的欠点の矯正である。  これを2月1日から3月のオープン戦までの約一カ月間で行なう。巨人はこの時期を四期に分けている。  たまたま手許にある44年の資料をみると、第一期が2月1日から8日までの多摩川グラウンド。足腰を野球の出来る状態につくる時期だ。第二期が宮崎の最初の十日間。チームプレー、バント、スライディング、フリーバッティング、投手のケン制などがメーンの種目である。  第三期に入って紅白戦を繰り込みながらチームプレーの実戦練習、変化球打ち、変化球投げをやって3月4日キャンプ打ち上げ。第四期のオープン戦で仕上げるのである。  この間にミーティングをやって戦法、フォーメイションを学習して、それからグラウンドに出て反復練習をつづけるのだ。  巨人の躾や伝統を教えるミーティングも開くが、こういう場合、長島、森、森永、国松らのベテランはミーティングからはずした。生きた手本たちと若手とを一緒くたにしてはならない。このことは選手管理上でも重要なことだ。 〈チームプレー〉  さきに上げた四つの目的の中で、最もキャンプで行なうに相応《ふさわ》しいテーマはチームプレーである。同じ釜の飯を食い長期間合宿するのだから、もってこいの時間である。  私は38年以降、キャンプで徹底してチームプレーを選手に植えつけてきた。チームプレーは、まず頭の体操から始まる。ミーティングでいろいろなケースを想定してフォーメイション、シフトを教えたあと、いく種類かの模擬ゲームを展開するのだ。 「無死走者一塁、ピッチドアウトのサインが出た。さあ関本、キミなら、どうする?」  などと質問して答えさせる。緊張した雰囲気のなかで、頭で覚えさせるのである。  そして翌日、それを体で実行させる。チームプレーは一にも二にもタイミングである。頭で理解している理屈をタイミングよく実行出来るようになるには、反復練習あるのみである。  たとえばバント防止のフォーメイション。無死走者一塁、投手関本はセットポジションだ。捕手のサインで全野手が動く。それは頭で判っている。が、問題は野手と投手の投球のタイミングだ。  長島と王がツツツと前進してくる。二人がどの地点にきたとき、関本はどんなタマを投げるのか。関本の投球が間一髪、早くても遅くてもいけない。万が一バントを成功されたり、安打されたら味方守備網はメチャメチャだ。外野の高田、柴田も、末次も全力で前進して各塁のカバーに向かっているのだから。  ピッチドアウトにしてもそうだ。バントをさせず、一塁走者を誘い出して殺すプレーだ。マウンドの高橋一は王がどの地点に到達したら捕手に投げるのか。土井はいつどうやって走者に気付かれずに一塁へ入るか。一人が狂えばすべて狂う。  こういうのを投手十数人、野手全員くまなくタイミングよくやれるまで練習するのだ。ちょうど舞台のリハーサルと同じである。  私は胸にマイクを仕込んでいちいちチェックする。川上監督がカミナリを落とすこともある。堀内が何度やってもタイミングが悪いと野手たちが「ホリ、ゆうベトルコヘ行ってきたのか!」などとドヤしたりもする。 〈ミーティング〉  またキャンプのミーティングでは、各球団の相手選手を徹底的に分析し検討する。高木守、田淵らのデータを細大もらさず集約して、攻め方を研究するのだ。もちろん平松、江夏、松岡弘らの投手についてもやっている。  選手個々の欠点矯正については、こんなふうになっている。  腕の振りで球種の判るもの、倉田、菅原。モーションの強弱で変化球の種類が判るもの、高橋一。投手全員セットポジションからの投球が拙いなどと指摘する。  セットポジションの矯正は盗塁阻止のためで、投球の直前に肩が動いたり、軸足が折れたりするクセがあっては、盗まれやすいからである。阪急の福本が出てきてから、とくにうるさく矯正した。  野手については、土井は一塁側バントに比べて三塁側バントが下手であるとか、高田は走力のわりに盗塁が少ないなど、キャンプごとにテーマを作って欠点の克服にあたらせてきた。  ところでよく新聞、雑誌などが、「キャンプで選手の実力を伸ばす」あるいは「キャンプで選手をつくる」と書くが、あれは俗説である。はっきりいえば嘘である。キャンプは実力を伸ばすところではなく、シーズンヘの助走のときであって、実力を伸ばすのはむしろシーズン中なのである。  49年に末次が十年目にして待望の三割打者になったが、彼が実力を伸ばしたのは明らかにシーズン中だったと私は思っている。  夏のころの甲子園球場で、悩んでいる末次と話をした。私は彼のスウィングがダウンスウィングになっていないように思われたので、 「日本刀で人間の首をハネるつもりで振ってみろよ」  というと、「こうですか」と振るのだが、なかなか首をハネるようにはいかない。そこで地面にバットを叩きつけるように振り下ろさせると、体の回転につられてバットが回った。怪訝《けげん》な顔をする末次に「それだよ!」といってやった。二割八分台の打率が三割ラインヘ向かったのは、あのとき以後のことだった。  これは手前ミソでいっているのではない。コーチのアドバイスとは、選手がワラをもつかむ心境の時にこそ生きるものだといいたいのだ。アメリカでは「聞きにくるまで教えるな」というコーチのABCがあるが、当たっているとき、悩んでいないときに細かいことをいうのは意味がない。  つまりキャンプで選手の打率をアップさせようなどと思うのは、はじめから無駄なことである。  さて、モデルケースとして巨人の宮崎キャンプでの一日を紹介してみよう。まず朝8時20分、大淀河畔を散歩する。これはエンジンを暖めるようなものだ。  9時朝食。選手の好みも考えて、和洋両方を用意してある。同50分、監督の訓話につづいて瞑目。座禅のように正座して各自、今日やることを「決意」してから球場に向かうことになる。  夜のミーティング後は、ファンの皆様から贈られた果物や夜食のオハギなどをつまんで雑談に花を咲かせるのだが、なんともいたしかたないのが、選手のセックス管理である。男所帯が一月あまり続くのだからイライラも生じようというものだ。  昔は公式戦のさ中でも女郎屋から通った猛者がいたらしいが、巨人では、この点“大リーグ方式”を参考にした。米国ではコーチも選手もキャンプちかくのレンタルハウスに夫婦で住まわせそこから夫人が毎日送り迎えするのだ。そうでもしないと、夫婦関係にうるさい米国ではキャンプが離婚原因になりかねないのであろう。  そこで巨人も、キャンプ期間中に、一、二度夫人をよんで、イライラを解消させるように努めてきた。目には見えないが、こんな配慮がV9の原動力になっていたのかも知れない。 罰金、勝つための法律  選手にとってもコーチにとってもキャンプ・インの日は元日と同じで、中には朝食に赤飯を食べて家を出る者もいる。一つの区切りであり一年のスタートである。  当日、決められた時間にグラウンドに集合する、この瞬間から、選手は、年末に球団側と交した義務の履行が始まり、巨人軍が定めた「軍の法律」を順守しなくてはならない。  巨人軍の法律とは、つきつめていうと監督と選手との間の取り決めである。法律であるから罰則もある。これが「罰金制度」である。  が、この罰金制度は、なにも難しいことをやっているのではない。勝つ野球を団体でやるにあたって、他人に迷惑をかけ、チームに迷惑をかけることはしないでおこうというだけのことで、また昔の「特高」のように目クジラたてて見張っているような陰険なものでもない。  巨人の罰金制度は、かつてドジャース・キャンプから持ち帰って制度化したものだが、選手たちも何回もの渡米で大リーグの罰金制度の実際を見ているのでスムーズに定着した。  ドジャース・キャンプのオープン戦で、ある選手がボーンヘッドを犯した。とたんに監督が、 「罰金100ドル!」  選手が何かいい訳すると、 「罰金200ドル!」 「でも……」と選手がいいかけると、 「よーし、300ドルだ!」  なんとまあ、すさまじいものよ、という感じだが、アメリカの罰金はこんなふうである。  話はちょっと脇道にそれるが、ウエートオーバーについて、軽く触れてみたい。  私が渡米した41年のある日、ドジャースのウォルター・オマリー会長から、同じテーブルで食事するように誘われた。  このテーブルは、会長夫妻のほかに球団顧問弁護士やゲスト、ゼネラルマネジャーらが坐るメーン・テーブルだが、私がゲストとしてご招待の光栄に浴している時、すぐ目の前のテーブルが目についた。  白人ばかり五、六人の大男がまとまって、ひっそりと食事しているのだが、見ているとステーキを一枚しか食べないし、パンにバターをつけない。  奇異に思ってオマリーに訊いた。 「あの選手たちは、どこか体の具合でも悪いのか」  するとオマリーはゲラゲラ笑って、 「そうだ、具合が悪いのだよ、彼らにとってもチームにとっても、まことに具合が悪い。だからこんなよい席《ヽヽヽ》で食事をしているのだよ」  と、そこがウエートオーバーの連中のテーブルであることを教えてくれた。彼らは罰金を取られたうえに、なお監視つきで食欲と戦って減量につとめていた訳だ。  さて、わが巨人軍の法律は、まず「時間」から始まる。 〈時間の厳守〉  集合、門限など、決められた時間に遅れるな、ということは、どの社会でも当たり前のことである。  巨人軍ではとくに厳しく、理由のいかんを問わず1万円の罰金だ。  選手には「途中で車がパンクしても間に合うようなゆとりを持って家を出るように」しつけてある。だから、いまではみんな集合の三十分から四十分前に勢揃いしている。これが「巨人時間」だ。  長島も王も早い方の典型だった。遅いのは柴田で、球場に着くのは早くても着替えや用意がノロノロで、たいてい最後になっていた。川上監督と私たちは「あいつが早く来るようになったら三割打てる」と話し合ったものだった。心構えが中途半端なのである。集合時間に早い者順に使っていけばまず間違いないと私たちは考えていた。  初犯1万円、二度目2万円、三度目は3万円と累進していく。キャンプなどの門限破りは、罰金覚悟の堂々たるものと、間一髪アウトのものとは、情状酌量して、後者からは取らないこともある。 〈怠慢プレー〉  ここからはグラウンド上のものだ。これには大きく分けて三つある。  一塁への全力疾走  一塁までの約27メートルを走れないものは一人もいない。誰にだって出来ることだ。また打った瞬間、打者は走者に変わるのだから走る義務が生ずる。  こういう誰にでも出来ることをしないと、罰が重くて1万円。  長島がこれで罰金を取られたことがある。投ゴロを打った。「しまった」と思ったのだろう。バットを持ってゆっくり走って止まった。相手の投手はボールを持って焦《じ》らすように長島を見ている。長島がまたゆっくり走った。投手はなお焦らして一塁へ投げた。罰金である。  投ゴロを打って「しまった!」とバットを地面へ叩きつけても、ここまではいいとして、そのあとは事のいかんにかかわらず全力で走らねばならない。  バック・アップ  投ゴロをつかんだ堀内が一塁の王へ投げる。堀内が悪送球することは、おそらく二千回に一回くらいの確率だろう。だが、たったそれだけの確率でも、確率がある以上、二塁の土井は一塁のバック・アップに走らねばならない。  たとえば、ノーアウトで右中間に三塁打性の打球が飛んだ。この時のバック・アップ態勢はどうなるか?  ライトの末次とセンターの柴田が打球を追った。二人とも右投げだ。もし柴田が取ったら体を一回転させなければ投げられない。それだけ時間がロスになる。だからここは必ず末次がボールを処理すべきである。一方、柴田は、末次をバック・アップしながらどこへ投げろと指示しなくてはならない。  この間、二塁手の土井はカットマンとして右翼方面に走り、土井の後方5、6メートルのところに今度は、遊撃の黒江がバック・アップに入る。四人ともそれぞれの義務を怠れば罰金だ。  また一塁の王は走者がベースを踏んだかどうか確認したら、セカンド方向に走って二遊間をカバーする。  三塁長島は当然ベースに入る。レフトの高田と投手の堀内は、長島の後方を左右からバック・アップ。こちらも、ボンヤリしていれば皆罰金である。  一つのボールを追って一糸乱れぬフォーメイションが展開されるが、一人でもバック・アップを怠ると、チームプレーはズタズタになる。チームを襲った危機や一つのミスを全員で防ぐ。それが選手の義務であり、勝つ野球の基本である。  ボーンヘッド  アウトカウントを間違える奴、走者のいる塁を間違える奴。二軍の選手がたまたま一軍の試合に出てのぼせていたのなら注意ですませるが、二度もやったら罰金だけでなく、一軍とおさらばだ。 〈いい訳をしない〉  試合の後、不振の理出を「実は下痢をしまして」「肉離れだったもので……」とボヤくのがいる。とんでもないことだ。これは、ひいては「巨人軍を裏切った」ことにもなる。  試合前にいわなかったことで、かえってチームに重大な迷惑をかけたのだから、1万円の罰金である。アクシデントならやむをえないが、日常の健康管理はプロの選手なら「義務」ともいえる。  以上は誰にでもやれることをやろうという、実にたやすいことばかりだが、私たちはプロであるから、プロの技術者として守るべき規範も作ってある。 〈バント失敗〉  バントはトスバッティング出来る人間ならやれて当然だ。バント失敗はプロとして未熟で恥ずかしい。3000円の罰金。 〈ヒット・エンド・ランの失敗〉  ヒット・エンド・ランを「安打して、走る」高度な技術と考えるのは古い野球の考え方だ。近代野球では、走者がいるとき「気楽にゴロを打つこと」をヒット・エンド・ランというのである。 「三割打者」でも百本のうち七十本を失敗しているのだ。三割五分の王だって“失敗率”六割五分の打者だ。だから「ジス・ボールを安打せよ」などとたやすく命令出来る訳がない。  また、ビハインド・オブ・ランナーといって走者の背後に打つというのがあるが、巨人ではこういう難しいことを要求しているわけでもない。  走者がスタートをきる、打者はゴロを打って、自分はアウトになっても走者を二塁に進めて、併殺をさける。これが巨人のヒット・エンド・ランである。簡単なことだ。  この時、もちろん一塁走者は、このサインが出る前に盗塁のマネをして、二塁ベースに二塁手が入るのか遊撃手が入るのかと探りを入れて打者に知らせる。打者はあらかじめそれを計算にいれておいて、それを見て「空き家」になるところヘゴロをころがせば安打になることもある。  ヒット・エンド・ランでゴロが打てなければ5000円の罰金だ。 〈無死または一死で三塁走者を生還させられない時〉  チャンスに犠牲フライ一本打てぬようでは技術が未熟であるとして5000円の罰金。 〈投手がカウント2—0から無意味なボールを安打された時〉  味方に有利なカウントに追い込みながら中途半端な投球をして安打されるとは、何事か。これも5000円。 〈サインの見落とし〉  私は三塁コーチスボックスで打者を見ている。打者の視線と合った。そのとたんにサインをくり出す。打者は手に砂をつけたりバットをしごいたり、やることがあるから、私は打者に合わせるのだ。  その点、走者は特にやることがないからいつでも私を見ていられるのだ。が、実はサインの見落としは走者に多い。  47年の日本シリーズで、一塁走者の森がいきなりバタバタと走り出した時には、私も驚いた。ヒット・エンド・ランのサインを取り消したのだが、森が見落としたのだ。打者の土井は2—3からの一球をボールと判断して見送ったが、ストライクの判定で三振。この時森が走った。土井も驚いたが、もっと驚いたのは阪急の種茂捕手である。あの鈍足の森が単独スチールするとは思いもよらず、呆然として二塁に送球出来ない。スチール成功の森が苦笑していた。  2—3からヒット・エンド・ランのサインは十分にあり得るから、はじめのサインが出たところで森は私から目を放してしまったのだ。  それよりずっと以前に、走者が高倉で打者が国松の時、これと似たケースがあった。高倉がヒット・エンド・ランの取り消しを見落として、いきなり走り出したのをチラと見た国松が、慌ててバットを出した。  打球は遊撃方面にころがったが、相手の遊撃手が二塁に向かっていたため逆をつく安打になって一、三塁。これがきっかけで1対0で勝ったことがある。森も高倉もミスを犯したが「結果オーライ」になったため、罰金は取らなかった。  よく「バントのサインを見落としてホームランを打ったらどうするのだ」ときかれるが、巨人では罰金を取らない。罰金は選手を縛るためにあるのではなく、勝つ野球をやるために行なっているものだからである。アメリカでは、サインを無視して、ホームランを放った打者からでも罰金を取ったことがあって、話題になったことがある。  普通のサイン見落としなら1万円だが、スクイズなど大事な場面で見落とせばいっきょに2万円にハネあがる。  さて、このほかにもたくさんの「巨人軍の法律」があり、選手は年中、罰金を取られているが別に文句も出ない。罰金の中から、逆転サヨナラ、超ファインプレー、ノーヒット・ノーランなどの素晴しいプレーをした選手に賞金を出すが、それでも年間200万円ほど残る。川上さんはその金を納会時の福引代にまわしているが、ドジャースのオルストン監督に、あなたはどうするのか、ときいたら、 「さあて、ゴルフ道具が古くなったから、買い替えようかな」  と、じいさん口笛を吹いたものだった。  罰金制度はV9の土木工事の基礎クイの一つである。土台がしっかりしていたからこそ、九階建てのビルが建ったのである。 弱い巨人がなぜ勝てた  私たちのV9時代は、一にも二にも「勝つ」ことが優先した時代であった。故正力松太郎オーナーの「巨人は常勝であれ」という至上命令を金科玉条として、粉骨砕身の努力を重ねてきた。  私たちがこの至上命令を全うし得たのは「巨人軍の根本精神」のもとに力を結集したからだった。  それは、ひとことでいえば、チームプレーの精神である。もともとチームプレーという言葉は、巨人軍が36年のベロビーチ・キャンプから持ち帰って使いはじめた野球用語である。それが37、38年頃から一般的にも使われるようになった。  チームプレーとは、「チームワーク」=「人の和」よりさらに深い考え方で、人間集団におけるモラルから、グラウンド上のプレーに至るまで、あらゆる人間行動を網羅した広い考え方といってよいと思う。  簡単な具体例を上げよう。  いまここで二人の人間がキャッチボールを始めるとする。ボールを握って投げる側は、次のように考える。 「相手がとりやすいところへ、とりやすいスピードで投げてやろう。投げ返す時のことも考えて胸元へ投げてやろう」  そう考えて投げる。一方受ける側はどうか。相手がそう考えて投げてもミスすることがある。だから相手の気持ちを察して、 「万一とりにくいボールがきても、なんとか受けてミスを未然に防いでやろう」  この二人の「思いやり」がチームプレーの根本精神である。  この小さな「思いやり」は、やがて「自分の義務と役割を完全に履行」することに広がり、チームのために「自己犠牲」をいとわず「助け合い」、そしてチーム全員に「感謝」するところにまで高められていく。  V9の巨人軍は、完全にこういう考え方で一つにまとまって、さながら「巨人一家」になっていた。「一家」といってもヤクザ的な一家ではなく、「家庭」の一家である。家族への思いやりが上下左右に張りつめられていた。  巨人軍のV10を阻んだ49年の中日にもそういう感じがあったし、Aクラスに食い込んだ三位のヤクルトもそうだった。  チームプレーが確立されていれば、たとえ戦力的には弱くても、Bクラスヘ転落するようなことはないのだ。その意味でチームプレーは弱者の戦略といえるであろう。  一般にチームプレーという語感からは、守備や攻撃のフォーメイションを思いうかべる人が多いようだが、フォーメイションとは、チームプレーの精神を完遂して勝つための方法である。いくらフォーメイションがあっても、この精神がなければ、“ホトケ作って魂入れず”なのである。 〈守備のチームプレー〉  守備のフォーメイションはたくさんあるが、ここではその陣型を説明するのが目的ではない。  相手の走者が一塁に出た。次打者の一打は三塁・長島の正面に飛んだ。絶好のダブルプレーのケースである。長島があのダイナミックな身のこなしでゴロをつかみざま二塁へ投げた。  ところが土井の二塁ベースカバーが一瞬おくれ、ボールはライトヘ転々ところがった。オールセーフで一、二塁。翌日の新聞はこぞって土井を非難する。 「カバーリングがおくれたために絶好のダブルプレーを逸した」と。  ところが私たちの見方は違う。批判されるのはむしろ長島である。長島は一度ボールをタメて、土井の呼吸に合わせてスローイングすべきであった。  もちろん土井にも半歩おくれたミスはいなめないが、長島にはタイミングを測る余裕があったのだから個人プレーに走ったとみなされるのだ。  二人はベンチに引き揚げてきて、互いに「悪かったな」とやっている。ミスが起こってしまったら、後はお互いに反省し、かばい合うのがチームプレーである。これを責め合い、罵《ののし》り合うようではチームプレーもへったくれもない。  バッテリーは、相手打者を研究し、知恵を出し合って対する。が、それでも打たれる。バックにエラーも出よう。  だが腹を立ててグラブを叩きつけたり、プイッと不服を顔に出してはいけない。投手が威張れるのは0対0で引き分けた時だけだ。シャットアウト勝ちしたとしても、それは野手が守って助けてくれたから出来たことである。  メッツの元監督ステンゲルは逸話の多い老人だが、ある時、エースが投げていてショートが二つもゴロをエラーした。くだんのエースはグラブを叩きつけて怒っている。ここでステンゲルはエースのところへ歩いて行ってこういった。 「エースならショートヘ打たせるな。うちのショートが下手なのは知ってるだろ。別のうまい奴のところへ打たせりゃいいんだ」  ボールを奪って即交代させたうえ罰金まで取り立てた。  またある時、投手が打たれたり四球を出したが野手に助けられて0点に抑え、四回の二死にこぎつけたが、それを降板させたことがある。あと一死で勝利投手というところで交代を告げられた投手が、慌てていった。 「ぼくはまだ疲れていません!」  するとステンゲル、「お前は疲れてないかもしらんが、ベンチにいるワシが疲れたよ」  これほどとぼけた味のあるステンゲル翁だが、ことチームプレーにかけては実に厳格なのである。  巨人では交代を命じられた投手は、まずスパイクでマウンドの土をならし、ボールをこねたうえでリリーフに手渡しながら、 「あとを頼むぞ」  必ずそういってからバトンタッチするしきたりになっている。ベテラン投手なら、相手打者のこの日の打撃傾向などをアドバイスしなくてはならない。  ベンチに降ろされたKO投手は大声を出して応援する。決してそのままロッカー室へあがったりはしない。チームが自分の仕出かした跡始末をするのを声援するのだ。  48年の日本シリーズで黒江が二つもエラーをして交代させられた。彼はクサるどころかベンチの一番前へ出て盛んに声援していた。これが黒江のよさであり、チームプレーの真髄である。 〈攻撃のチームプレー〉  一死から柴田が一塁に出た、次打者は高田である。この瞬間からチームプレーが始まる。走者の柴田は、ヒット・エンド・ランのサインが出る前に偽盗のダッシュをかけて、二塁のカバーリングに入るのが二塁手か遊撃手かを高田に教える。この義務については前にも書いた。  高田はその動きを見ておいて、サインが出た時、野手の逆モーションを衝《つ》くゴロを打つ。うまくいけばヒットになって一、二塁にはなる。  ヒット・エンド・ランの代りに「スチール」のサインが出たらどうするか。高田の取り得るチームプレーは二つある。  まず、ディレイ・スウィングである。  相手の捕手・田淵は、柴田の疾駆する姿を目の端でとらえる。高田は打つ気がなさそうに見える。 「よし、二塁で殺そう」  と田淵が体重をツマ先にかけて捕球動作に入る。高田のヒッティング・ポイントをボールが通過した。高田がスウィングするのは、まさにこの時である。田淵はハッとして今度はストンと体重をカカトにかけざるを得ないのだ。  このほんのわずかの体重の移動が、柴田の盗塁を助けているのである。ただカラ振りするだけの自己犠牲では一〇〇パーセントではない。相手の捕球、送球動作を眩惑するフェイントを用いて、徹底的に味方を助けてこそチームプレーである。  もう一つはエバース。高田は柴田が走ったと見た瞬間、バントの構えをする。たんに構えるのではなく、田淵の視線上にバットを横たえて視線をさえぎり、柴田を助けるのである。  これでまんまと二盗に成功した“赤い手袋”の柴田はヤンヤの喝采を集めるが、柴田はホームベースの高田に感謝の喝采を送っているのだ。  さて、ある回のトップ末次にカウント0—2から「待て」のサインが出た。末次は、さも打ちそうな格好をして三球目を待つ。絶好球がきた。  だが、打たない。いくら大好きなホームランボールがきても、チームのために自分の打率を犠牲にしても、絶好球を見送るのである。  他球団ではこういう場合、後でよく文句が出るそうだ。 「あそこで打たせてくれていれば、4打数ノーヒットなんてことなかったんだ」  チームプレーの精神がないからだ。  もっとも、敵が巨人軍のルールを知っているチームなら、これを逆用して相手をだますチームプレーもある。  48年の日本シリーズの対南海戦。私は二、三の選手に「待て」のサインが出ても出なくても、適当なところで捕手に聞こえよがしに一つのセリフをいわせた。 「チェッ、また“待て”のサインか」  上田がカウント0−2の時つぶやいた。野村はこれを耳にして、どまん中へほうらせた。上田は、それこそ待ってましたとばかりレフト・スタンドに叩き込んだ。  野球とは盗んだり殺したり、だましたりの物騒なスポーツだが、巨人の野球はチームプレーの精神のもとに、守攻走のいたるところにワナ、フェイントを仕掛けてあるのだ。  私はかつて零戦の戦闘機乗りと話をしたことがある。日本の零戦は、飛行機も飛行技術も米機をはるかにしのいでいるのに、いざ戦闘が終わってみると、零戦の方がたくさん落とされていたそうだ。 「よく検討してみると、日本は単独攻撃で戦うところを、向こうは三機編隊のチームを組んで向かってきていたんです」  といって「そこでわれわれは戦争中に慌てて編隊攻撃の訓練をやったもんですよ」と苦笑した。  だいたい日本人は源平の昔から、 「やあやあ、われこそは……」  と名乗り合って一対一の戦いをやってきた民族だ。チームプレーが下手な民族である。  私たちがチームプレーを巨人に植えつけるのに大変な根気と熱意を注いできたことはいうまでもない。とにかくミーティングにつぐミーティングで納得させる以外になかった。あまりミーティングが多いものだから、敗けると相手ベンチから、「今夜もまたミーティングでしぼられるぞう」とヤジられたものだ。  ヤジられてもケナされても、チームプレーを確立するにはコミュニケーションしか方法がないのだから仕方ない。 「ああ、またやるよ」  とヤジリかえして、試合後のミーティングをやった。これは権力や強圧でやれるものではない。  ただただ、よく話し合って納得させ、実行させるだけだ。ただし、納得させるにはよい結果=優勝を得ることが最も近道だ。優勝というよい結果を得て、首脳陣の考え方の正しさを証明することである。勝てば金にもなり気分もよくなり、なによりも納得する。  もっとも、巨人の第二期黄金時代のように川上、青田、千葉、与那嶺ら一番から七番まで三割打者がずらりと揃っているようなチームなら、チームプレーは必要ないだろう。49年のアスレチックスはあの頃の巨人と似ている戦力で、ワールドシリーズの前日まで四番打者とエースがケンカしていても優勝しているくらいだ。  だが、戦力の弱いチームが勝つためにはチームプレーが絶対に必要である。V9の巨人軍は、公私にわたって完全にチームプレーが浸透し、あたかも一家のようになっていた。  だから一般の会社などでいう愛社精神に燃えていて、悪口をいう外部には結束してあたり、グラウンドでトラブルが起これば全員でぶつかった。阪神のバッキーをめぐる長島、王への死球の時など、誰もベンチに残っていなかった。  一家の道楽息子のようにいわれた堀内でも、ことチームプレーの点については礼儀正しく長幼の序を重んじるなどチームワークを乱すようなことはなかった。普段はポカがあるのに肝心なところではピシャリと抑えたから、かえって、悪太郎とよばれたのだろう。  ただ、V10を逸した年はチーム内の不満の声が外部にもれ聞こえたのは残念だった。野球はやはり勝たねばならぬのだ。 ミーティングその全貌  ミーティングには、監督の主宰するものが最も多いが、各担当コーチがするもの、選手を含めてディスカッションするものといろいろある。が、いずれにせよ幹部の考え方や戦法を全選手に周知徹底させてチームの意思統一をはかる最善の方法である。  したがって巨人におけるミーティングは、ズバリV9巨人を築いた基本戦術の一つであったと断言できる。  年の最初のミーティングは1月の半ばごろ開かれる幹部会議で、監督が一年の計をコーチ陣に伝え、指示するミーティングである。  いまここにV10を狙った49年1月11日の幹部会議のメモがある。  監督はこの席で、今年の指針は「初心に返ること」と「チームプレーの向上」であると発表し、具体的にこまごまとした“注文”をつけている。  主なものを拾うと「投手のセットポジションを小さくさせよ」「変化球打ちのタイミングを工夫し、会得させよ」「ケース・バイ・ケースのバッティング。犠飛、走者を進めるなど、攻撃のチームプレーを徹底させよ」などと、こと細かにコーチに注文をつけている。  これを各担当コーチが持ち帰ってキャンプでどうマスターさせるかの試案を練って、再びミーティングを開き、その討議を経て「キャンプ・スケジュール」が組まれる。  宮崎キャンプで、選手に対して行なわれた最初の監督ミーティングを個条書きにして、次に公開しよう。 ○相互信頼の精神を忘れるな ○服装、言動、礼儀に気をつけよう ○他人の迷惑を考えよう ○お手伝いさんに親切にしよう ○門限は11時、マージャンは9時半までとする ○寝る時は暖房をとめろ ○身辺は清潔に、部屋をきれいに、部屋長は責任を持て ○外出は私服で。巨人のジャンパーで出てはいけない。外出先は明確に ○夫人を呼んでいい。その場合、休日前夜の外泊を認める。届け出ること ○休日のレンタカーは禁止 ○新聞記者を部屋に入れるな ○インタビューは広報担当を通してすること。約束したら守れ、守れない時は断われ  実に微に入り細をうがって、巨人軍選手としての心構え、チームの規律を具体的にあげて説明している。  この心構えに関連して、日本ハムに移籍した渡辺(秀武)投手から監督に手紙がきた。  ミーティングで監督が読み上げた。彼は「野球はただ打てばいい、投げればいいと思っていたのは自分の思い上がりだった。幹部との真心のふれ合いをしなかったことが残念だ」という意味のことを書いてきた。彼は他のチームに行って初めて自分を反省したのであろう。  川上さんは野球人としてはむろんのこと、社会人としても恥ずかしくない人間をつくることに重点をおいていた。  キャンプのミーティングには、こういう人間としての基本的な教育のほかに、戦法、フォーメイション、投・打・守各部門の技術ミーティングもたくさんある。が、ここでは省略する。  さて、ペナントレースが始まるとミーティングの内容も変わってくる。キャンプの基本的なものから状況に応じたものになってくる。  たとえば四連敗を喫した遠征先で、監督は次のようなミーティングをしている。 「あえてとやかくいわんでも各人が考えるだろうと思っていたからミーティングをしなかった。だが、みんな気力に欠ける。練習をたくさんやっても、ただ時間をかけるだけでは意味がない。技術に気力が伴わなければなんにもならない。野球には常に敵がある。敵を倒すには気力がなくてはダメだ。工夫もない。広島の衣笠を見てみろ。ボックスの前へ出たり、ホームプレートに接近して立ったり工夫している。少しは工夫をこらして、チームが勝つためのバッティングをしたらどうだ」  いわゆる“カミナリ”というヤツだ。これが実によく効いた。カミナリを落とすタイミングがうまい人だった。  普通、ペナントレース中のミーティングは試合前に五分から十分間ですませていたが、投手だけは二、三十分くらいの時間をとった。主として相手チームの打者の解剖をするのだが、48年にはシーズン中私も投手ミーティングに出た。投手総崩れの時だったからだ。その席で私は、 「勝負したい球があるなら、たとえデータでは『ノー』となっていても、思いきり思ったところへ自信を持って投げろ。打たれたらオレたちが責任をとってやる」  と、宣言した。  これはいつも藤田コーチがいっていることと同じだったが、それまで先発投手を持ち上げて気分をよくすることしかやっていなかった私が、大胆にいい切ったものだから、投手たちには新鮮な刺激になったようだ。その証拠に間もなく投手陣が立ち直って何連勝かした。  私はそのミーティングに、いつも自分の飲むコーヒーを持って行ったものだから、選手たちは「牧さんがコーヒーを持ってくると勝つジンクスが出来た」と、とうとう日本シリーズの時までお呼びがかかったものだ。  で、その日本シリーズだが、これほどミーティングの効果が絶大だった試合はない。“巨人一家”がミーティングで作られたと同じように、V9はミーティングによって達成されたといってもいい。  日本シリーズはいうまでもなく短期決戦である。そこで監督は、選手に催眠術的な暗示をかける。川上さんのみごとなミーティングぶりを47年から拾ってみた。  第一戦の前、監督はこういった。 「必勝の信念さえあれば勝てるのだ。たとえ三敗しても四敗するまでは負けではないのだし、巨人はここ一番では必ず勝てるのだ。形を変えずいつも通りにやろう。勝敗の責任は監督がとる」  そのせいか、みんなリラックスして一、二戦を連勝で飾った。  ところが第三戦で負けた。そのとき監督は、チームのムードについて中尾コーチが「日本シリーズでもいつもとちっとも変わらんなあ」といっているのを小耳にはさんで、「暗示が効きすぎた」と思ったようだ。そこで第四戦の試合前に語気鋭くいった。 「今日の試合はシリーズの死命を制するゲームだ。全員緊張しろ、徹底的に緊張して頑張れ」  古今東西、勝負に臨んで「緊張して頑張れ」と檄《げき》を飛ばしたのは川上さんただ一人ではないだろうか。普通ならリラックスしている方がよいのだし、肩の力が抜けていることは結構なことではないか。が、この逆説がきいて、その試合は楽勝だった。  さらに、次の日はこんな話もした。 「米粒に字を書く人のことを知っているか。その人は筆を直角に持つのだそうだ。そして体全体の自然な動きにまかせて筆先を動かして、あの小さな字を書く。手先ではない。体で書く修錬を積んでいる。修錬で自然に精神が集中できるようになっている」  この手の話は川上さんの得意とするところだが、選手はキツネにつままれたような顔をしていた。  さて、今日勝てばいよいよV8達成という日には、 「王手がかかったが、今日決めようとは思うな。自然のままにやれ、ミスは追い詰められたものにこそ出る。ゆとりのあるものには出ない。高橋一は雨でローテイションが崩れているが、みんなが控えているから、いけるところまでいくつもりでやってくれ。巨人らしい特徴のある野球をやってみせてくれ」  といっただけだった。巨人はその試合を8対3で勝った。高橋一が完投し打線も大いに奮《ふる》った。 「家族を喜ばそう、優勝の写真を子孫に見せてやろうじゃないか」などと語りかけるようにいったこともある。  選手を暗示にかけ、奮起させ、安心させる。心憎いまでに選手の心理を操縦したミーティングとして、このV8の日本シリーズが印象深く頭に残っている。  さて、日本シリーズにもう一つの重要なミーティングがある。戦術のミーティングである。私たちがどのようなミーティングをして阪急を倒し、48年のV9を達成したか。  このシリーズは巨人有利の下馬評だったが、私は、阪急に福本がいるだけに楽観はしていなかった。福本の足を止めなければ負けるかもしれないとさえ思っていた。  そこでこの年は下馬評とは反対に「阪急強し」のミーティングをやった。そして小松スコアラーや私たちが集めた阪急のデータを分析して、次のような「福本の足を止める」作戦を考えた。 〈作戦A〉 福本が一塁の時、打者は左の加藤か右の長池である。二人とも「引っぱりの打者」だから、これを利用する。  つまり長池が打者の時、二塁手は投手のセットポジションに合わせて二塁へ入れ。それを見て福本は塁に戻る。戻ったのを確認して投手はホームヘ投げる。打者が「引っぱり」だから二塁をあけてもケガは少なく、福本の足を止めることが出来る。打者が加藤の場合は遊撃手が同じようにする。  この戦法は福本が二塁にいるときにも応用できる。 〈作戦B〉 福本が塁に出たら捕手は野手にボールのコースを事前に知らせろ。サインを出したあと右足を先に開いたらインコース、左足を先に開いたらアウトコースだ。右足だったら二塁手、左足だったら遊撃手が二塁へ一目散に入る。  投手はどちらが二塁に入るかに気をとられずに思いきって投げろ。  ミーティングでこの作戦を理解させたが、作戦A、Bともにまんまと図に当たった。Aのケースでは福本は一塁にクギ付けになり、Bでは、あの“弱肩”の森がみごとに盗塁を試みた福本を刺して話題になった。戦術ミーティングの典型的な成功例である。  ミーティングではもちろん阪急の打者や投手の解剖もやっている。その方法は、最初わかりやすくするために、セ・リーグのよく知っている選手に当てはめて説明する。たとえば、「足立は金城に似ている。山田は山下の絶好時に、戸田は外木場だ……」  というように当てはめて攻略法を検討する。そして試合ごとに、実際に対戦した時の体験から最初の攻略法を修正し補足していく。ミーティングで全員が考えを出し合うのだ。  山田に対しては高田が「高目のタマが多い。カーブが少なくシュートが九〇パーセントだった」と報告し、末次が「ゆっくりしたモーションに合わせているとタイミングがおくれる。ボクは足に合わせて打って成功した」などと報告して、こちらの攻め方をしぼっていくのである。  投手も、敵の打者について報告する。そのなかで、堀内の報告が面白かった。 「大橋はインコースには手がでない、ヤマ張りバッターだ。福本は大ヤマ張りだ。インコースにヤマを張っていたらしく、まんまとホームランを打たれた。ソーレルには何を投げても打たれない。住友だけは近めのミートがうまくなっている」  こうやって、データを試合ごとに修正し、補足していくから、巨人は試合するたびに強くなっていくのである。  控え選手からは相手サインの解読の報告がある。48年の西本監督の「待て」のサインは「右手を顔にやるポーズ」、「盗塁」のサインは「ズボンに触る」だった。ともに目を皿にしていたベンチ・ウォーマーたちのスパイ活動の結果である。  私たちは、相手選手だけでなく、審判についても、クセや傾向を割り出して利用して戦った。  斎田審判 ジャッジメントがおそい。意地っぱりだから、ヤジは禁物。かえって依恬地になる。  沖審判 試合の前半はコースに辛いが、後半は甘くなる。総体的にインコースのストライクが甘くて、アウトコースが辛い。  田川審判 判定はうまい。ただし目が悪い。怒らせると損だ。むしろオダテろ。  ミーティングで相手の監督、選手、審判をサカナ(?)に議論するのだから活気がある。日本シリーズの間、東京にいても旅館(文京区湯島・花月館)に合宿した。だから、ミーティングもしやすかった。  このように、ミーティングはチームの結束をはかるためには不可欠のものであった。長島監督のもとでも、この“伝統”がつづいているものと思う。 V10は可能であった!  私が巨人をやめてから、よくこう質問される。 「巨人は、どうしてV10出来なかったのか? あなたはその原因をどんなふうに考えているのかね」  私は、九連覇したのだから一回ぐらい負けたってよいと思うのだが、こう質問するファンは、半ば非難めかして、半ば内部の責任あるコーチとして、私に真面目な回答を求めているようである。  川上さんは、「敗軍の将、兵を語らず」で弁解がましいことは一切いっておられないが、敗戦には必ず敗因があるものなのだから、あえて作戦コーチとして私のみた「巨人・V10ならず」について答えてみたいと思う。  V10出来なかった原因はたくさんある。一つだけを選んで「これだ」と一刀両断出来るものではない。が、その中で最も比重の大きかったことは、川上さんから長島にバトンタッチされるという巨人軍の歴史の流れである。しかも、その政権交代をファンも選手も既定の事実のように知っていたから随分とやりにくかった。  どうやりにくかったかといえば、常勝という宿命を背負いつつ、長島監督時代の選手を育てるという難しい仕事をやらねばならなかったからである。川上さんが在任十四年間で「勝つこと」を少しでも犠牲にしたのは、これが最初で最後の年であった。  まさに異常な年だったのだ。  49年の春、川上さんは私にこっそりと、 「自分は今年で監督をやめる。しかしやめたあと、このままの戦力では長島が可哀相だ。だから私は一人でも多くの若手の適性をためしつつ、育てながらバトンタッチしたいと思っている」  といった。この方針は若手をどしどし実戦に使うということを意味する。  そしてそのとおりのことをやった。上田、柳田、吉田、矢沢、淡口、原田、河埜、小川、玉井、小林ら、こんなに大量の“若手”が使われた年は他にない。  上田、吉田らの十年選手でも若手と呼ぶと奇異に映るだろうが、他のチームならいざ知らず、巨人ではまだ若手なのである。ベテランと呼ばれるのは三十五歳以上だ。  末次などヤクルトの武上と同じ歳だが、武上がチームをとり仕切っているキャプテンなのに、末次はやっと中堅になったところ。富田と「同期の桜」の阪神・田淵がチームの重鎮であっても、巨人の富田は若手のバリバリである。こういう若手を一挙に前面に躍り出させた。V10だけを狙うなら、そんなに使いはしない。  そのような起用をすれば、当然のように犠牲者も出る。内野でいえば黒江と土井であり、外野では高田、そして捕手の森である。  とくに私は、黒江と土井の二遊間コンビが試合に出なかったことが大きいと思っている。このコンビは十二球団でもズバ抜けた名コンビなのである。  土井のすばらしい守備についてはすでに定評があるが、黒江を高く評価することには異論もあろう。なるほどふつうの守備と打撃では阪神の藤田が随一だが、走者が出た時の遊撃手ということになれば、間違いなく黒江がトップだ。  黒江と土井のコンビは、あたかも夫婦のごとくツーといえばカーの仲で、二人の呼吸の合い方は絶妙だった。  彼らがどれくらいすばらしい男たちであるか一つの実例を挙げてみよう。典型的な例として47年の日本シリーズ・対阪急戦のデータがある。  巨人が二勝一敗で迎えた第四戦。巨人が2点リードのまま九回の表、阪急の攻撃である。二番手の関本が突然くずれて無死一、二塁のピンチだ。巨人は急きょ、堀内を投入。さあ、どう守るか。ベンチにいて私は、阪急がどう攻めてくるかを考えた。普通ならバントで走者を二、三塁に送ってくるケースだ。  だが、このシリーズで阪急の西本監督は大胆な作戦の変更をたびたびやってきた。しかもここは九回である。二、三塁にして堅実に同点を狙ってくるか、逆転を狙ってバスター・バント(バントの構えから強打すること)してくるか。私はどちらかの判断を下して守備陣形のサインを出さねばならない。  私はバスター・バントと判断したが、どうもしっくりこない。そこでマウンドヘ走って行った。黒江と土井の判断を参考にしたかったからである。マウンドに内野手を集めて、相手がどう攻めてくるかきくと、二人とも口を揃えて、 「送りバントじゃない。必ず打ってきますよ」  とハッキリいうではないか。ちっとも迷っていない。非常に心強く思った私は、バスター・バントの守備陣形をとるように指示してベンチに帰ってきた。  その数十秒後、阪急の打者・岡田は、堀内の投球に合わせてバントの構えから一転ヒッティングに出て、カン高い打球音がした。 「あっ!」  私が叫んだのと黒江が定位置で岡田のライナーをつかんだのと同時だった。黒江から二塁へ入った土井にボールが渡って一瞬にゲッツー。巨人は重大なピンチを脱出した。  もしバントに備えて前進守備を敷いていたならば、ライナーで内野を突破され二塁走者が生還して1点差に詰め寄られたばかりか、逆転の走者まで塁に出してしまっていた。そうなっていたら王手をかける大事な試合だけに、以後どうなっていたかわからない。  私は彼らの素晴しい判断力に感謝の気持ちで一杯だった。  ファンの皆さんは、たったそれだけのことと思うだろうが、その一度の判断の狂いが勝敗を左右するものなのだ。黒江や土井は、西本監督の頭の中を分析し、走者や打者・岡田の身振りなどからバスター・バントを的確に読み取っていたのである。  長島監督は、黒江をコーチ補佐にし、現役の土井をフルに使ったが、とてもよいことだった。  だいたい野球において二塁手の占める重要性はきわめて大きい。二塁手は内野のカナメである。ベンチから守備コーチを通じてサインが二塁手に飛び、二塁手から内外野へ指令が飛ぶのである。  二塁手は守備がうまいうえに、野球を知っていなければいけないし、判断力がなければならないし、投手に助言を与えられなければならない。  49年の中日は、二塁に高木守がいたからこそ優勝出来たのだし、三位になったヤクルトもそうだ。むろん武上がいたからだ。逆に広島はどうだったか。外人のマクガイアだったから言葉が通じなくて、最下位だ。  ところが巨人は、二遊間コンビをくずしたばかりか、土井まではずして戦った。V10だけ《ヽヽ》を狙うのなら、川上さんもこんなことはしなかったであろう。  土井のかわりには上田、富田が入り、ときには遊撃の黒江がまわったり、新人の山本が入ったことさえある。こうなると、二遊間は、“コンビ”ではなく“即席ペア”である。しばしば連携プレーで失敗したのは当然だった。  私は川上さんから「新監督長島のためにあえて若手を使う」という決心を聞いていなければ、敢然とこの“ネコの目二遊間”に異を唱えていたはずである。森と高田についても、同じである。巨人はこういうバトンタッチの条件を整えつつ、他方ではV10を目指す困難な試合展開をしいられていたのである。  ところでファンの方は、「ベテランと若手とはそんなに差のあるものなのか。二軍で完成された選手なら一軍で十分使えるのでは」と疑問に感じることだろう。  二軍で抜群なら一軍でも相応のことをやれるだろうと思うに違いない。だが、実際には、そんなに甘いものではない。  たとえばもう一人の若い二塁手・山下。二軍では三割五分台を打って打撃十傑のトップ級の常連で守備も抜群。足も速く盗塁のテクニックもうまい。ところが一軍ではさっぱりダメだったのである。  二軍の優等生というので使ってみると、サインを見落とすし、他の野手との呼吸が合わないし、足もすくんでしまって動かない。こういう例は実に多い。  河埜だって例外ではない。彼の場合は黒江の後釜に早急に用意しておかねばならないということで、ことあるごとに「うまい、うまい」と調子に乗せて実戦に使った。  それでも打撃コーチからの注文は、それこそ山ほどあったし、一軍入りする時、二軍の須藤コーチが私たちに申し送ってきたチェックポイントは十数項目もあった。昨年一年間ほとんどフル出場にちかく試合に出して一つ一つ直していったが、まだまだ一人前ではない。  須藤コーチの指摘していた河埜のチェックポイントはこんなふうだった。 「決断力がワンポイントおくれる。捕球からスローイングに移るまでに時間がかかる。攻走守のすべての面で積極性に欠ける。頭の訓練がまだ不足だ……」  こんな欠点は、黒江には一つもない。  二軍とは、玉石混交の中から玉をより分ける場所であり、より分けた玉を一応の型に削るところであって、その玉を磨くのは一軍なのである。一軍の選手と一緒にベンチに坐って試合を見て、感じて学び、遠征について行って雰囲気に慣れ、ともに練習して学び、試合に出て磨かれていくのである。選手は一軍の試合に出てこそ育つものなのだ。二軍の完成品は、一軍の素材として認められたにすぎないのである。捕手の矢沢も、こういう面から実戦に使ってみて内容をみながら育てたのだ。  そうこうするうちに一つの困った現象が出てきた。  巨人のベテランは、こういうプロの実態を知っているから、自分たちを差し置いて未完成な若手が試合に出る矛盾が面白くない。  しかもベテランは常時試合に出なければ調子を保ちにくいときている。土井など、たまに出る、打てない、の悪循環の繰り返しで、一時はかなり悩んでいた。  V10は、巨人が中日に勝ちこしながら勝率でわずか一厘八毛及ばず、達成出来なかった。それだけの差は、負け惜しみではなく“V9メンバー”で戦っていれば逆転出来たと思っている。  巨人は50年の陣容を育てつつそこまで粘った大変なチームなのである。  さて投手陣に目を向けてみよう。V10ならずの戦力的な誤算はいうまでもなく高橋一であった。沢村賞までとった二十勝投手が、わずか一勝。いまから思うと高橋一自身の調整に問題があった。キャンプで彼はこういっていた。 「去年成功したのはキャンプで徹底的に鍛えたのがよかった。だから今年も同じように目一杯やります」  コーチ陣は高橋一はベテランだけに彼に調整のすべてをまかせた。  それがいけなかった。前の年の疲労がとれるどころか倍加してしまった。そして開幕戦で引き分けたあと、ズルズルと四敗。この頃から彼はひどいスランプに陥った。 「オレは勝てないのではないか」という厄介な暗示にかかってドロ沼にはまり込んだ。精神的なスランプは、他人では治せない。  こうした渦中にあってベテラン選手もさぞ大変だったろうと思う。川上、長島のお二人も気苦労が多かった。前半戦、川上さんは長島の扱いにずいぶん気を使った。 「長島のイメージを悪くしたくない。だから疲れている時は休ませたいのだが、いくらいっても“大丈夫です”というんだよ」  私たちは「二、三日腰でも痛くなってくれないかな」などといい合ったものだった。  終盤戦からは、ファンも優勝する巨人を見にくるのではなくて、長島を見に球場へやってきていた。長島の顔を見る野球になっていたのだ。長島の人気のほどが偲ばれるところだが、その間に着々とバトンタッチのためのチーム作りも進められていたのである。  巨人はこうしてV10を逃した。だが川上さんは「これでよかったのだ」としみじみともらしていた。 ああ、ベロビーチ物語  巨人は36年の第一回渡米いらい四度渡航して、いまやベロビーチのドジャー・タウンといえば野球ファンおなじみの場所となった。  私は巨人の第一回渡米の時は行っていないが、監督就任の年のあの渡米の意義を川上さんは次のように語っている。 「意義ははかり知れないくらい大きかったよ。新しい『守りの野球』と出会って目のウロコが落ちたし、遠く故国を離れてきたことでチームが一つにまとまった。雑音も私用もなくて野球に専念できた。同時に意志の統一とそれぞれの立場の確認ができた」  50年の長島監督一行の渡米も、実は川上さんが自分の経験に照らして奨めていたものだ。  ベロビーチはフロリダ半島の大西洋沿いにある小さな町だ。地図で見ると、あの月ロケット打上げ基地ケープ・ケネディの南、マイアミの北である。ベロビーチは人口五、六万人の保養地で、産業といえばグレープフルーツ、オレンジの産地であるほかは、セスナ機の工場が一つあるだけの静かな町だ。  その町から車で十分ほどのところにドジャー・タウンがある。ここは元海軍航空隊の飛行学校があったところだ。それを払い下げてもらったうえ、ホルマンさんという大地主の土地を一部、分けて貰ってドジャー・タウンを作ったのだそうだ。  そのホルマンさんはドジャースから土地売買の申し込みを受けて、 「それくらいならタダで上げるよ」 「タダでは困ります」 「じゃあ1ドルでも貰っておくか」  その土地が驚くなかれ、数十万坪だったとか。タウンはホルマンさんの名をとった公式のホルマン球場のほかに、ふつうの野球場が四面、27ホールのゴルフ場がふたつ、それにテニスコートとプール、選手宿舎を抱えた広大な敷地である。全部で百万坪はあるだろう。  タウンの周りはオレンジとグレープフルーツの畑だ。一度ホルマンさんの畑を見学に行ったが、一つの畑を一周するのに時速80マイル(120キロ)の車でなんと二時間もかかった。  長島巨人の選手が泊った宿舎は、古い木造二階建てのカマボコ兵舎を作りかえたものだ。新しい宿舎は平屋の別荘風の一戸建てでエアコンからTV、バスまでついている立派なものだ。古い兵舎はまだ半分残っている。  その兵舎で面白いのはトイレだ。ドアがスネのあたりまでしかないから外から使用中かどうかすぐ判る。  46年に行った時、私は用を足しにトイレヘ行った。スネが見えないから空いていると思ってドアを引くと、ある投手が便器のうえに乗ってしゃがんでいるではないか。名前を明かしたいところだが、彼の名誉のために伏せておこう。  アサガオは、長身ぞろいの兵隊用だから、小柄な私などはツマ先立ってやらねばならない。ふとみると目の前に何か書いてある。 「自分が思っているほどキミのは大きくないヨ。もう少し前に立って」  アメリカ人お得意のジョークだ。  ある朝、タウンの総支配人ディック・バードが大声で叫んだ。耳をすましてみると、「スネーク、スネーク」といっている。何ごとかと思って、私は長島巨人のコーチになった宮田と行ってみた。  するとドラムカンの中に1メートル50くらいのガラガラヘビがのたくっていた。ゴルフコースのフェアウエーで見つけたのだという。バックダイヤモンドという一番毒のきつい奴だそうだが、ドジャースのある選手が首っ玉をクギで打ちつけてナメしはじめたのにはもっと驚いた。  ヘビはたくさんいるらしく、ゴルフをしていてOBになってもボールを取りに行けない。いくら新品でも絶対に捜したりしない。ベロビーチで“ガラガラ・スネーク”に咬《か》まれたのでは、土産話をする前に死んでしまうかもしれないからだ。  可愛い方ではリス。これは宿舎の庭の木にもいる。いろいろな鳥もいるし、野ウサギの走るのを見かけたこともある。  気温は、さっき書いたように亜熱帯だから直射日光は強烈そのものだ。宮崎でかなり焼いて行ってもひと皮ペロッとむけてしまう。しかし日陰は涼しくて寒いくらいだ。また朝晩は半ソデでは寒くて仕方ない。  このベロビーチに49年私は一人で行った。昔の兵舎跡のこわれかかった宿舎を半分整理して、代りに作った一流ホテル顔まけのロッジ風の宿舎を感嘆して見ながら歩いていると、あちこちの新しい家から黒人が続々と出てくる。そして一方の、朽ちかけたような兵舎から白人が出てくるではないか。  実力があれば快適なところに寝起きし、実力がなければ、ボロ屋に住むのである。ここでは「人種の差別」がまるっきり逆転して厳然と存在している。  これが実力の世界なのだ。膚の色で文句をいってもここでは誰も聞き入れてくれない。文句があるなら実力でこいという“差別の社会”なのである。  ユニフォームの色で差別する。食事の場所とメニューで差別する。宿舎によって差別する。練習時間で差別する。  大リーガーはそれが当り前だと思っている。彼らはこういう。 「だってな、金をもうけるヤツと金のかかるヤツの相違なのだから、当然じゃないか」  メジャーには一日20ドル近い食事を出すが、ファームは、違う場所で12ドルの安い食事だ。  またある時、宿舎の入り口にあるオフィスの前で、選手と夫人が肩を寄せ合って、張り出された紙を見ている。それはメジャーから3A、2A、Aの各ファームのメンバーの発表だった。  ある夫婦は肩を抱き合い、キスして喜んでいるが、ある夫婦はがっくりと声もなく荷物を車に積んでいる。  メジャーに残れば一家でロサンゼルスに住んで、メーン・スタジアムでプレー出来、応援してもらえる。が、ファームヘ落ちれば名もない町へ行かなくてはならないのだ。  アメリカは日本のように狭い国ではない。フロリダ半島の幅だけで東京から岡山くらいあるのだから、都落ちなんていうなまやさしいものではない。歓喜と落胆のあやなす実力の世界の断面である。  こういう厳しい大リーグの実態を、私は長島巨人の選手に見てほしかった。とくに初めて渡米した定岡ら若手選手に見せたかった。50年はまだファームの連中がドジャー・タウンに集まっていないため、見られなかったのは残念だ。  さて、このような自然環境の中で巨人はキャンプをする。宿舎に近いグラウンド一面を借りきって練習また練習。その内容は日本のキャンプと変わりないが、ドジャースの打撃、投手各コーチらの指導を仰ぐことがアメリカ・キャンプの特長である。  前の晩ミーティングをして貰って、翌日はグラウンドで実際に見せて貰うのだが、過去、こんな点を指摘されたことがある。  たとえば高田の打撃について。 「フォロー・スルーを途中でとめているが、思いきって肩を回して、フィニッシュまで振り切った方がよい」  ON以外の打者については「バットを立てすぎている。力のない打者はバットを寝かせて振った方が速くボールに当てられるのだ」  チームプレーについてはこちらがピック・オフ・プレーやバント防止、ダブルスチールなどをやって見せてチェックして貰う。  投手はチェンジアップの投げ方やスクリューボールの投げ方を教わる。  戦術的なものについては私たちコーチが教えられるものが多く、選手は、自分と似たような体格の選手を見つけて、そのプレーから何かを吸収することが多い。それはプレー上だけでなく練習態度やプロ選手としての自覚の持ち方についても同じである。まさに「百聞は一見に如かず」である。  朝6時ごろ、カーン、カーンという音がする。いまごろ何だろうと出てみると、マシン・バッティングの“鳥カゴ”の中で二人の選手が打っている。金属バットだからカーンという音はタウン中に響いているが、打っている選手を見て目をみはった。  当時(46年)ドジャースヘ移籍してきた“無法者”ことディック・アレンだ。実力は一流中の一流だが、マナーの点で問題が多く、チームを転々としていた選手だ。その大選手が朝6時から黙々と“特打”をしている。  一緒にやっていたのがボーナス・プレーヤー、クロフォードだった。当時はまだメジャーのレギュラーにはなっていなかったが、49年は五番を打ってドジャースの優勝に貢献する大選手に成長した。  いつでも好きなように練習出来るドジャー・タウンならではの新鋭とベテランの自主練習だが、メジャーの彼らですらあれだけやっている事実を選手が実際に見た、この効果は、百万言を費やすより大きいと思う。  練習法で変わっていた点もあった。さっきのアレン、クロフォードもそうだったが“鳥カゴ”の中では、普通の投捕間18メートルより3メートルほど打つ場所を前にしてあったことだ。  マシンからボールが飛び出すと、すばやくカーンとはじき返す。スピードに負けずに振る、猛烈に強いタマを打つ練習である。  これをやるには、スウィングにムダがあってはやれないし、反射神経がにぶくても打てない。こうして速いボールに対する目を慣らし、バッティングのムダをなくしている訳である。  さっそく巨人の選手にもやらせてみたが、ONクラスでも怖がって、うまく出来なかった。そこで帰国後、巨人ではテニスの軟式ボールを使ってやった。これならボールに当たっても怪我をしないですむからだ。  これで思い出すのは、戦前の阪神である。沢村のタマを打つためにホームプレートを1メートル前にして速いタマを打つ練習をして、打倒沢村を目ざしたという。が、3メートルも前に出しては、きっと打てなかったろう。巨人でも打撃練習で1メートルほどホームプレートを前に出すことはあるが、3メートルというのはやっていない。  ところで、ドジャースの選手は、二、三時間も練習すれば終わりだが、川上監督時代の巨人は倍の六時間近くも練習した。暑いのによくスタミナがもつものだと向こうの選手は舌を巻いた。そして、ある日、ひょんなことになった。 「炎天下で六時間も練習出来るのは、あの“黒い薬”のせいだ。あれは一体何だ。きっとすごく栄養のあるものなのだろう」  といい出すのがいた。  彼らが東洋の神秘を見たような顔で訝《いぶか》った“黒い薬”とは、実は、“江戸むらさき”だった。  ドジャー・タウンでは、時々カリフォルニア米を炊いてくれた。炊くといっても、米と水を“適当に”入れた鍋を別の蒸し鍋に入れてガスにかける炊き方だが、とにかくご飯を炊いてくれた。  私たちは、日本から持って行った“江戸むらさき”を熱いご飯のうえにのせてよく食べた。  それだけなら彼らの注目を集めなかっただろうが、あのウマい匂いが彼らにはなんともいただけない匂いらしい。私たちがあのプーンという香りに「いい匂い!」とやっているのを「ウヘーエ」と鼻をふさいで見ていたから、いきおい神秘的な“黒い薬”になった。  私たちは「これを食べればスタミナがつくぞ」とノリや梅干を食べさせてはどんな反応を示すか面白がって、からかったこともあるが、あるウェイトレスがこの匂いに顔をしかめて何事かわめいた。  ところが、それを見咎めたドジャースのウォルター・オマリー前会長がそのウェイトレスを私たちの目の前で叱った。 「ゲストに失礼ではないか!」  アメリカ人は、客を招待するまでは招くかどうかについてとっくりと考えるが、いったん招いたら、とことんスマートにもてなすのだ。この一件いらい“江戸むらさき”を食べる時は、こっそりと食べるようにした。  ドジャー・タウンには関係ないがフロリダにも日本通の人がいる。49年の春私が一人で行った時、友人の家で天麩羅《てんぷら》を作ってやって喜ばれたが、そこで会った奥さんの一人に「根付《ねつけ》の本を送ってくれ」といわれて何のことか判らなくて閉口したことがある。  日本へ帰って調べたら、印籠のつけヒモにある飾りもののことだと判ったが、まだ英語版「根付の本」が入手出来ず送ってない。  またピータース・バーグの日本研究所からも招かれたので、野球の話でもしろというのだろうと思って気楽に出かけてみると、なんと法隆寺と大徳寺の質問を受けてさんざんな目にあった。 「法隆寺を作ったころの社会事情はどうだったのか」  そう訊かれたって“野球バカ”同然の私に判るわけがない。どこへでも出かけて行くのはよいことだと思うが、フロリダの片田舎でもこうなのだ。これからは注意しなくてはいけない。  ベロビーチの話に戻そう。  巨人が36年に最初にきた時、ドジャースのミーティング講師であるアル・カンパニスと、ある巨人のコーチが口論してトラブルを起こした、という。これはまた聞きなのだが。  カンパニスが投手のミーティングで、投球後、踏み出した足が最初に地面につくのは「ツマ先」である、と話した。  ところがこれに対してあるコーチが自分の意見を吐いた。 「自分は確信を持ってカカトが先だと思う」  カンパニスは「アメリカの投手はみんなツマ先からつけている。なぜならそれが基本だからだ」と説明した。しかしそのコーチは譲らず「自分はカカトからつけることが理にかなっていると思う」と再び自説を主張した。気まずいままにミーティングが終わった。  さて翌日、グラウンドにくるはずのカンパニスがやってこない。聞いてみると「ゆうべのようなことがあっては責任を持って巨人に教えることが出来ないからもうやめた」とスネていたそうだ。  結局、巨人側が謝罪して再びカンパニスによる指導が行なわれて、その後もひきつづき教えをあおいでいる。  謝罪した巨人側にカンパニスはこういったそうだ。 「意見はたくさんあって当り前である。だが、人に教わる時は、自説をああだこうだ主張するのでなく、まず白紙に戻って一から聞いてみる。素直に聞いてそのあと自分で取捨選択すればよいのだ」  それ以後巨人側は、ドジャース側がやってくれる打撃、投球、走塁、守備の各ミーティングと実地指導を、白紙になって聞くことにしている。  36年のこのトラブルも、せんじつめれば巨人側の過剰なくらいの勉強意欲のせいであったろうと私は思う。  そのアル・カンパニスは、いまも元気に動き回って、片ことの日本語を駆使している。だが、過去、ベロビーチで巨人が世話になった人は彼のほかにもたくさんいる。  打撃では大打者だったデューク・スナイダーをはじめブレストン・ゴメーズ三塁手(のちにコーチ)。この人は三塁手の守備だけでなく作戦についても理論を持った人で、メキシコ人ながらいまはアストロズの監督になっている。  また走塁は、いつもドジャースには実力のある現役選手がいた。有名なモーリー・ウィルス。そのあとを継ぐのが49年チーム一の盗塁をマークしたデイビー・ロープス二塁手。理論だけでなく目の前でやってみせてくれるから迫力がある。  とくに長島巨人は、機動力に力を入れているから、ロープスの実技指導は有意義であった。  走塁は、単にひとつの盗塁を意味するだけではない。一個でも余計に塁をとることが走塁だ。いや野球という競技は、次々に塁をとって本塁をたくさんとった方が勝ちのゲームである。だから、「機動力」と特別ないい方をする必要のない基本的なことである。49年の巨人は機動力を使わなかった。正確にいえば「使えなかった」のだ。  レギュラーの中に森、長島、王という「三大鈍足」がいては機動作戦は展開できない。高田や柴田がいるではないかといっても、彼らにも三、四年前の切れ味がなかった。  この三鈍足のうち二人が現役を退いた。その代りに富田、河埜、庄司という若手に出場のチャンスがまわって、新しい巨人は、王以外は全員、同じ程度の走力があるということになる。  私は、二割五、六分でも足のある打者なら足のない二割七、八分の打者よりはるかに有効な戦力だと思っている。  ロープスの実技指導によって、一塁の走者が一本のヒットで三塁へ進めるテクニックと理論を身につけてくれればいうことはない。守っている側からすれば、いつも一、三塁と攻められるほど重圧感のあることはないのである。  長島監督は、だいたい午前10時にグラウンドに出て1時すぎに練習が終わる「短時間集中方式」でやっていた。陽ざしも強いことだから、それも一方法であろう。  だが、私たちの時代は違った。いま書いたように、六時間も練習して「クレージー・ジャイアンツ」と驚かれたものだ。が、いくらどん欲でタフな川上さんでも六時間びっしり練習させた訳ではなかった。ドジャースの練習を見学《ヽヽ》する「練習時間」が一時間ほどあったのだ。  私たちは、主としてチームプレーの練習を、ぞろぞろ出かけて行って見たものだ。 「せっかくきたんだ、見ないで帰ることはない」  と練習見学の時間を作り、ホルマン球場で行なわれるエキジビション・ゲーム(オープン戦)や紅白戦まで見た。  見ていると実に平凡な練習をしているように感じられた。選手たちは、 「なんだ、当り前のことをやっているだけではないか」  とアクビすることもしばしばあったが、チームプレーはなにも難しい高度なことをするものではない。あくまでも基本を基本どおりにすることなのだ。  これはアル・カンパニスも口ぐせのようにいっていることで、昭和29年に彼が書いた『ドジャースの戦法』の中の「基本」はいまでもそのまま通用する。  だから彼のミーティングは、50年のも36年に初めて巨人に教えたのもほとんど変わっていないのだ。大リーガーたちは、キャンプで毎年、当り前の基本を繰り返し、繰り返しやっているだけである。  だから、巨人は、ドジャースヘきて目をみはるような奇略をマスターして帰るのではない。あくまでも「基本がいかに大事か」という事実を学んで帰るのである。  しかし、その基本というものの中には技術以外のものも入っている。カンパニスの言によれば、 「シンキング・ベースボール」  である。グラウンドに入って、野球をする前にまずグラウンド状態、風速、風向、それに太陽の位置までも観察する。  その観察の結果、セーフティバントのころがり具合、人工芝の状態をみてからその日の戦い方を考えるのだ。それをすませて、やっと試合である。こういうことをひっくるめたのが「基本」である。  大リーガーたちは練習の時もエキジビション・ゲームの時も、基本を不器用と思われるほど忠実にこなしている。こういうことは、現地で見て、はじめて納得がゆくのである。だから私もアクビなどせず「しっかり見ろ」と全員を叱咤《しつた》したものだ。  ざっとこんな環境の中で巨人は練習しエキジビション・ゲームをして帰国するが、過去、巨人は遠征帰りの年はいつもダッシュよく飛び出してペナント・レースを勝ち抜いてきた。目に見えないが、それなりの収穫があったのである。  収穫で思い出すのは、もう巨人をやめた大橋勲捕手のことである。  太っちょの大橋がベロビーチにきて6キロも痩せた、と日本の新聞に出た。すると、帰国後とたんにファンレターが倍増した。だが文面はどれもこれも、 「どうやって痩せたのか方法を教えてほしい。薬は何を飲んだのか?」  というヤツだった。  大橋は「オレ、グレープフルーツ食べてただけだけど……」と当惑していたが、よく訊くと、「グレープフルーツの生ジュースをいくらでも飲ましてくれたでしょ。ノドが渇くからあればっかり飲んでいたら、飲みすぎて下痢をしたすよ。痩せたのはこのせいなんで……」  こんな笑い話もいまは懐かしい。 V9達成のための投資  50年の春、巨人と中日がアメリカ・キャンプを行なった。  私は、海外キャンプというと一つの話を思い出す。それは私が41年にドジャースヘ行った時、ドジャースのファームの総支配人フレスコ・トンプソンと交した会話である。彼は私にこう訊いた。 「日本では規則で一チーム、六十人しか選手をとれないという新聞記事を読んだが、本当か?」  そのとおりだから、私は「そうだ」と答えた。と、彼は両手を広げて、 「いままで日本の野球は驚異的な進歩を遂げてきたが、そんなことではもう大リーグを脅かすほどの選手は出ないぞ」  といったものである。  アメリカでは一つのメジャー・チームの下に3A、2A、Aの各ファームがある。この四組織の選手を合計すると、一球団だけで少なくとも二百人から三百人近くの数にのぼる。このぼう大な数の中から選り抜きの九人がファンにお目見得するのだ。  これに対して日本ではたった六十人の中から一軍メンバーを選ばなければならぬ。同じレギュラーの九人でも、その背後にいる選手の数が問題にならない。  トンプソンが六十人と限定した理由は何かと訊くので、「金がかかるからだ。金のあるチームは何人でも雇えるが、金のないところは雇えないので、協定を結ぼうということになったのだ」と私がいうと、彼は「金持ちがビフテキを毎日食べるのを、金のない者が三日に一度にしろと文句をつけたのか」と、首をひねった。多くの選手の中からよい選手を選ぶには当然、金がかかるといいたいのだ。  巨人がV9を達成出来るほど強大なチームになり得た理由の一つは、よい選手を得るのに「金に糸目をつけなかった」ことにある。これは故正力松太郎オーナーの経営方針に従って、勝つために、思いきって金を使ったからである。  よく多摩川の練習場に何億円が眠っているとか、捨てたとか揶揄《やゆ》されたが、そうまでしたからこそ巨人は強くなってV9を達成出来たのだ。けっして“ムダ金”ではなく、それは“投資”であった。“投資”は新人選手をとる場合にもトレードの場合でも同じである。  いまはロッテの金田監督が現役時代、国鉄から巨人に移ったのは40年のことである。巨人は中日と争って金田を獲得した。当時、金田は球威が落ちてきていたとはいえ、十四年間も連続二十勝してきた当代きっての投手であった。巨人からも毎年確実に何勝かもぎとっていた。その金田がライバルの中日に入ったのでは、巨人は手痛い目に会う。だから、それこそ必死の思いで金田を獲得した。  金田は巨人に入って最高の年でも十六勝、最低の年はたった四勝と、彼の絶頂期とくらべればさほど大きな活躍は出来なかったが、金田がもし中日に入っていればその星数だけでも巨人は不利になって、V9はあり得なかったかもしれない。  この星勘定のほかに金田は巨人に貴重な財産を残した。それはたぐいまれな猛練習の習慣である。  金田はロッテでご自慢の猛練習をやってV1を達成したが、巨人にいる時もすごかった。ランニング、体操、投球練習、フィールディング、バッティングと投手と野手のやるあらゆる練習をやって、これまでの投手の練習概念をことごとく打ち破った。まさに革命的だった。堀内や高橋一が「あの大投手がこんなに練習するのか」と目をみはって驚き、自分たちも見習うようになって、今に続いている。  勝つためには金に糸目をつけずトレードする巨人の大方針の遺産である。  ところでこの金田に巨人はいくらの金をかけたか、私はトレード、スカウト部門には深くタッチしていなかったから本当のところは知らない。しかし入団した時は、たしか年俸で長島を上回る2400万円で、王の二倍くらいだったと聞いている。思えば大変な投資である。  年俸のほかに契約金もあった。この契約金については一つのエピソードがある。当時、球団の金庫には「現金」がなかったそうだ。その噂を川上さんが耳にした。そこで、川上さんは夫人に相談し、家屋敷を抵当に入れて、キャッシュで1000万円を作り、球団へ駆けつけた。球団はこの川上さんの熱意にうたれてすぐ金を用意したという。  巨人は金田に、この1000万円とも2000万円ともいわれる契約金と、長島を上回る年俸を与えた。巨人在籍五年間でのベース・アップ分も加えればトータルで2億円は超えているだろう。それでその間の勝ち星は四十七勝だから、一勝あたり約430万円だ。  見方によれば大変高い買いものだったようにみえるが、いまいったように猛練習という貴重な遺産を残し、V9の基礎を築いてくれた。投資の成果は十分にあったといえる。  この金田のほかにも高倉、田中久、関根、吉田勝、森永、北川、須藤、福田、町田、桑田、南海からの柳田に若生、広野ら優秀なベテランをどんどんトレードでとった。戦力としてはもちろん、彼らの持っているものすべてを吸収するためである。  トレードにもこのように力を入れた巨人である。新人の採用にも相当の金をつぎこんだことはいうまでもない。  その意味では、多摩川に札束を投じたといういい方は、あながち間違ってはいない。といって巨人はムダ遣いをしたと考えるのは間違っている。それほど投資したからこそONや柴田が生まれ、強力なチームになったのだと考えるのだ。  契約金が3500万円だったといわれる山口(阪急)や江川(法大)らが、自由競争であったなら巨人は1億円でも2億円でもつぎこんでとったかもしれない。  だいたいドラフト制度ほど野球を堕落させているものはない。技術面でも興行面でも野球の発展を阻害している。もし山口や江川に1億円の値がつけば、ファンは興味をもって「1億円の男」を見に集まって、野球はもっともっと盛んになるだろう。  ところが、妙な制度が出来たばかりに指名された選手は好きなチームに行けず、年俸も抑えられている。プロ入りを拒否して大学や社会人野球へ行く人が出てきても当然である。  巨人のあるスカウトがこぼしていた。指名した社会人の選手を勧誘に行っていわれたそうだ。 「なぜプロヘ入ると、いまより月給が下がるんですか」  新人プロの年俸は180万円と決まっている。月給にして税込み15万円だ。大学を出て就職して、二、三年もすればそれ以上になるだろう。  金の面で魅力のないプロは、それだけでプロではない。昭和20年代の終わりころ、中日が空谷《そらたに》という投手に当時の金で200万円もの契約金を払ってセンセーションを巻き起こしたが、そのときはまだ若かった私ですら、月給で10万円くらいは貰っていたと思う。社会では、“月給一万三千六百円”の歌が流行していたころだ。  これが本来のプロ野球だった。新人に「サラリーマンより安い」といわせたり、選択の自由を許さないドラフト制度は、野球の魅力をファンからも選手からも奪った「悪法」だと思う。球団経営にとっても、強くなるための投資を妨害する制度である。  さて、ドラフト制度が敷かれる前に、私も新人採用のお手伝いをしたことがある。スカウトが捜してきた選手を、担当コーチが手分けしてチェックするのだが、私は内野手を受け持っていた。  一軍のコーチもひきうけていたため、広島・広陵高校の山本という選手を見に行ったときなど、広島まで一番機で飛び、ナイターに間に合うように帰るハードスケジュールのこともあった。  いまヤクルトにいる船田(巨人—西鉄—ヤクルト)を見に行ったときのことだ。私が球場に着くと一回の表だった。船田はゴロを軽快にさばいており、グラブさばきはまずまずとみた。その裏の攻撃で船田は敬遠の四球で出塁し、初球でいきなり二盗を決めた。それを見て私は合格と判断、さっさと帰ってOKと報告した。  バットは一度も振らなかったが、初回から敬遠されるのだからよほど怖いバッターなのだろう。足もある。いうことなしだ——と考えたのである。  黒江を見たのは、東京・田無のグラウンドだった。黒江は立正佼成会から熊谷組の補強選手として移籍して頑張っていた。評判では南海の小池によく似ていて、小型だがパワーがあると聞いていた。打撃では社会人の三冠王だった。フリーバッティングではガンガン打っていた。あとで黒江は、 「あの時は“追い風”だったんですよ。いい時に見て貰いましたね」  と笑っていたが、私は打撃もよかったが、肩のよいのが目についた。問題はグラブさばきだったが、守備の技術は鍛えればうまくなるのだ。滝も見た。これも肩のよさが目についた。  土井はとうとう見るチャンスがなかったが、彼は入団後「見られていたらきっと巨人に入れなかったでしょう」とふざけていた。巨人に入ってから見ると、グラブさばきは先天的ともいえるすばらしさだったが残念ながら肩が弱い。そこで遊撃から二塁ヘコンバートした。  失敗した例としては林千代作がいる。はじめて見た時は実によく打っていた。バカ当たりしていたものだから、ついその気になってOKと報告したが、巨人に入って全く用をなさなかった。  さきほど書いた広陵の山本は、当時の代表がえらく執心していた。私が「打てない、走れない、守れないで落第だ」と報告すると、代表が「ではほかのチームヘ行って三割打ったら罰金を払うか」という。監督は「会社が金を出してくれるのだからとろう」と入団させたが、結局モノにならなかった。  このように、スカウトが素材を発掘し、本人の性格、病歴、係累、生いたち、家庭環境などを調べてふるいにかけた者を私たちがもう一度首実検してから入団交渉に入ったものだった。  そのよい素材の見分け方だが、私は内野手の条件としてつぎのように見るポイントを決めている。まず、フットワークが十分かどうか。ゴロのリズムにフットワークがついていっているかどうか。ゴロのスピードと同じ速さでグラブを動かし、吸い込むように捕球していればよい。下手な選手だと、ゴロとフットワークのリズムが合っていなくて、衝突するみたいな感じで捕球している。  体型については、一定の基準はない。これは時代によって流行のタイプがあるから不思議である。私の現役のころは小型時代だった。南海の木、阪神の長谷川などである。  それがすぐ広岡に代表される大型内野手がモテはやされる時代になり、その後、南海の小池や黒江のように小型ながらパワーのある遊撃手の時代になった。  いまなら阪神の藤田、阪急の大橋、巨人の河埜のような中肉中背型時代といえる。  話は脇道にそれてしまったが、スカウトする上でもう一つのポイントは、 「どれも平均点ではダメだ」  ということだ。なにか一つ、強烈に私たちを引きつける能力が欲しい。鉄砲肩でも韋駄天でもいい。セールスポイントがなければ買い手はつかない。  スカウトも私たちも、そのセールスポイントに目をつけ、金を払うのである。これはなにも新人に限らない。既成スターには三拍子揃った者より、何か一つ抜群な者が多い。王は打撃、高田は足とグラブさばき、堀内は快速球がセールスポイントなのだ。  さらに極論すれば、私は技術でなくたって、豊かな個性でもよいと思っている。昔からのファンは、三原さんのプレーを覚えていなくても「筒井捕手を殴るのを見ました」といい、水原さんの「リンゴ事件」といえば野球ファンなら、みんな知っているだろう。金田のパーフェクト・ゲームより、よく喧嘩した男として思い出す人もいるくらいなのだ。  とにかく新人、既成選手を問わず、セールスポイントのない平均点選手ではプロで通用しない。  さて、このようにして選び出して新人をとれたのは古きよき時代だった。ドラフトになると、クジ引きだから思うように選手がとれない。  そこで巨人はドラフトの最初のうちは、欲しい選手に「巨人にしか入らない」と公言させる。そうすれば新聞が書きたて、他球団も指名を敬遠するような方式をとった。  げんにこの手で堀内、高田をとった。その次が田淵に目をつけた。やはりこの手を用いたが阪神に指名されてしまった。そのドラフト指名の前に、ホテル・ニューオータニに田淵を呼び出して、巨人の沢田スカウトらが密会して、巨人以外に指名された場合はプロ入り拒否の声明を出すよう話し合った。ところが、その現場をマスコミに見つかってしまった。ドラフト会議以前の接触はご法度だけに問題になったが、欲しい選手をとるためには、思いきった奇手も打たざるを得なかったのだ。  強くなるためには、金に糸目をつけるなといった故正力オーナーは、同時に「天稟《てんぴん》の才、天分のない者は斬れ」ともいっておられた。  川上時代になってから、巨人をやめた選手は三、四十人にのぼると思うが、そのうち寿命がきて引退したのではない者もたくさんいる。文字通り多摩川に捨てた金は何億円かになるだろうが、それを勘定していたらキリがない。  技術の先物買いなのだから仕方のないことで、そうやって巨人は一チーム六十人という制限された数を質で補ってきたのである。  言葉は悪いが、その質にはばく大な“金肥”がまかれているのである。だがそれもドラフトという「悪法」のためにやれなくなった。長島新監督が外人選手に目を向けるようになったのは、この窮地を脱出するためでもあった。 コーチ業は中間管理職  いまを去るン年前の宮崎キャンプでのこと。ある有名選手が私の部屋にやってきて、「ナントカしてくれ」と泣き出しそうな顔だ。聞けば、 「アヤシキ虫が住みついたようで……」  彼は新婚早々だった。しかもキャンプを打ち上げて帰京するまであと三日だ。見ると、ひどい毛ジラミだ。トレーナーにいうのは恥ずかしいし、薬局へ薬を買いに行くには顔を知られ過ぎている。悶々《もんもん》としているうちに帰京の日が迫った、というわけだ。そこである荒療治で手っとり早く処置を施した。それでも心配だったから帰京して翌日すぐ電話した。 「大丈夫だったか?」  電話の向こうからは、あのときの青い顔がウソのような晴々とした声で、 「おかげさんで大丈夫です」  尾籠《びろう》な話だが、プロ野球のコーチ稼業などとは、こんなこともさせられる。それというのも、コーチが中間管理職というポストにあるせいだろう。  かつてプロ野球は、監督が一人で何から何までやることになっていた。会社でいえば中小企業だった。  それを大会社のような社長—各部門担当管理職のシステムにしたのは、ほかならぬ川上さんだった。36年の第一回ベロビーチ・キャンプから持ち帰ったもので、大リーグのシステムを導入した。といっても大リーグで大会社システムをとっているのはメジャーだけで、ファームの3A、2A、Aの各チームでは監督が一人で何もかもをやる中小企業だ。  さて、勝敗を争う戦闘部隊には、大将の命令を忠実に実行に移す組織が必要なのだ。昔の陸軍でいえば参謀、海軍でいえば幕僚に相当し、戦闘に勝つか負けるかは、この組織のあり方にかかっている。企業闘争でも、プロ野球でも、まったく同じことがいえるわけである。  野球において監督は社長であり大将であるから、監督はまず、チーム作りや試合遂行の大綱を決め、命令を下し、指揮をとる。その大綱、命令、指揮を補佐し、推進していくのがコーチである。  巨人がV9を達成出来た一つの理由に、やはりこの監督とコーチのあり方の成功を挙げなくてはならないと思う。  最近、私は防衛大学校の猪木正道校長の講演を聞く機会があったが、その中に次のようなくだりがあった。 「過去いくたの戦争の中で指揮官の命令で負けたいくさは一つもない。しかし参謀の命令で負けたいくさはいくらでもある」  この短い言葉の中に、指揮官と参謀のあり方が実にみごとにいい表わされているように思う。  ちなみに、参謀のつける肩章は「紐にエンピツ」のデザインである。その由来はナポレオンにさかのぼる。ナポレオンは夜中でも、遊んでいる最中でも、突然命令を下した。だからナポレオンの参謀は首からエンピツをぶら下げて片時もはずせなかったという。  突然飛び出してくる命令を紙に書きとめて、各方面に伝えるためだ。偉いのは命令を下す方で、書きとめる方ではない。さらに命令が馬鹿げていれば部隊は全滅するし、それを遂行するスタッフを持たない将は、いくさにも勝てない。野球もまったく同じである。  巨人の場合、川上さんは「ナポレオン」ではなかったから、スタッフ・ミーティングを活用して命令を下す方式を多用していた。  二年前に倉田の投球フォームを変えたとき川上さんは、倉田のピッチングをよくするにはどうしたらよいかというテーマをスタッフ・ミーティングにかけた。投手コーチだった中尾さんや藤田コーチを中心にみんなで意見を出し合った。その議論を聞いて川上さんが、 「フォームをスリークォーターに直せ」  と結論を出した。  監督の出した結論は命令と同じである。今度はコーチ全員で命令の遂行にあたり、おかげで倉田は新・八時半の男といわれるまでになった。  河埜のバッティングもスタッフ・ミーティングの議題になった。意見はたくさん出た。ある者は「右ヒザが折れるからそれを直そう」、ある者は「右肩が落ちるところがいけないのだ」、「いや左肩が突っ立つんだ」などと出た。そこで監督がまとめた。 「みんなの話を聞いていると同じ欠点を、言葉をかえて指摘しているだけではないか。それではかんじんの河埜が判りにくいから言葉を統一しよう。河埜のいけないところは『右肩が落ちること』だ」  この結論以後、全コーチは河埜に聞かれても新聞記者に聞かれても「右肩が落ちるのがいかんのだよ」と答える。それ以外の表現は絶対に使わないようにした。  もしあるコーチが「こうしたい」ということがあれば、コーチが直接選手にいうのではなく、まず監督に上申し、監督の口から選手にいう経路を踏む。  たとえば「柴田にバットを寝かせて構えさせたい」と思えば、監督に話し、監督の意志として柴田に伝えるのだ。チームの“意志”は、どんな時でもどんなものでも、監督の意志でなくてはいけないのである。なぜなら、監督とは勝敗のいっさいの責任を負う最高責任者だからだ。  私には、作戦コーチという肩書もあった。が、試合中は決して自分から作戦について口をはさまない。相談を受けた時に答えるだけだ。  監督は勝敗の責任者だから、ときには非情な采配もふるう。そのために選手の人間性が傷つくこともある。  たとえば堀内が四回まで投げて二死をとった。あと一人をアウトにすれば勝利投手になれる。そんな時でも川上さんはスパッと堀内に交代を命じたこともある。むろん堀内はムクレる。カリカリしてベンチに帰ってくる。そこから私たちコーチの仕事がはじまる。監督の意志によって傷ついた選手の心をアフターケアするのだ。  が、決して選手におもねってはいけない。同情もしない。「お前は限界だった。あれ以上投げていたら一発を食ってチームは負けていただろう。あぶないところだったなあ」などといって、監督の意志を客観的にして教えつつ慰めるのだ。これを「監督は冷たいなあ、ひどい交代だったな」などとやっては、メチャクチャである。  時には監督が無茶なことをいい出すこともある。もうかれこれ十年以上も前のことだが、遠征で負け続けてみんなヘトヘトになって広島から夜行列車で帰ってきたときのことである。真夏だった。  汽車の中でぐったりしている当の川上さんがいい出した。 「明日、多摩川へ全員集合だ」  不機嫌きわまりない顔だ。が、いくらなんでも、真夏の夜行だ。いまのように新幹線の旅ならまだしも、無茶だと私は思った。 「いま必要なのは休養ですよ、みんなクタクタじゃないですか」  ところが川上さんはブスッと、 「いや、1時に全員を集めろ」  の一点ばりである。命令が下ったのだ。自分の考えに合わないことであっても、選手を炎天下の多摩川へ引っぱり出さなくてはいけない。 「監督は『精神力を養え』といっているんだ。疲れていても暑くとも、こん畜生ともう一度練習する。その精神力を持とうといっているんだ」  と説いて回ってやっと納得させた。これは権力や強圧的な命令でやってはいけない。納得ずくで炎天下へ出さねばならない。逆に、選手を説得出来なくて、再び監督に撤回を求めるようでは、コーチとして無能であるばかりか有害である。  コーチとは、監督の補佐役であるだけでなく、監督と選手の間に位置する中間管理者でもあるから、板ばさみになることもあるのだ。が、その板ばさみを、あくまでも監督の意志どおりに、選手と対立することなく切り抜けなければならない、つらく苦しい商売でもあるのだ。その意味ではコーチは、話術や説得のテクニシャンでなくてはいけないということになりそうだ。  技術的なアドバイス一つにしてもそうだ。なんといっても選手は依恬地だ。自分の技術に自信を持っている。依恬地で自信家でなければよい選手にはなれないのだから、当然だ。だが、その選手にも欠点があれば直さなくてはいけない。  選手が調子のよい時にアドバイスすると、選手は実に素直に「ハイ、ハイ」とよい返事をする。だが、調子の悪い時にいうと「そうかなあ、自分ではこう思うんだけど」などと反論してくる。  この二つのケースでどちらが効果的だろうか。  アドバイスが効果的なのは反論してくる不調の時なのである。「ハイ、ハイ」とよい返事の時は、選手は右の耳から左の耳へ聞き流しているのだ。調子がよい時に、フォームをあれこれ考えたりはしない。逆にいかにいまのフォームをそのまま維持していくかで頭が一杯である。どんなよいアドバイスでも本人にとっては雑音でしかない。  ところが不調だと頭の中であれこれ考え、迷い、試行錯誤をしている。だから反論が出てくる。反論が出てくればシメタものだ。徹底的にアドバイスし練習させてつきつめてゆくのだ。  アメリカには「聞きにくるまでなんにもいうな」というコーチ心得があるのは、前にも書いたかと思う。困って相談にきた時こそ“鉄の熱い”時なのである。  アドバイスにもタイミングがあるのだ。そのタイミングに合わせて適切なコーチをするには、普段から選手を四方八方から観察しているという前提がある。それがコーチの経験というものであるかもしれない。  ところで、新しい監督や新しいコーチが就任すると選手は大変である。川上さんですら、余裕を持って自分のペースを作るのに三、四年はかかっている。  36年に監督になってものすごい練習をした。いったんその猛練習のペースをつかんでから三、四年して、はじめて時間を短くして、以後V9期間を通して自分のペースをものにした。  長島巨人はみな張切っている。自主トレを早くし、キャンプの練習もびっしりだ。  新しい監督やコーチなら当り前のことなのだが、「よそのチームはもっとやっているのではないか」「この程度で大丈夫だろうか」と不安で、自分の目安を持てない。だからとりあえず量を多くして安心感を得ようとする。迷惑するのは選手である。  これは新しい人の宿命ともいえるもので非難をしているのではない。自分の経験にてらしてみてもやはり三、四年の時間をみないと、自分のペースが作れないということなのだ。  ところが、経験を積んでくると、また別の危険なアナに落ち込みやすい。それは妥協である。  スタープレーヤーや、ベテランには何もいえなくなるコーチがいる。いいやすい若い選手にだけモノをいう。こういうスターヘの妥協が監督やコーチにあると、必ず選手の間から不平不満が出る。  川上さんは長島でも王でも、みんなの前で注意した。偉いというより、最高管理職として当然の姿であった。  このスターヘの遠慮という危険なアナに落ち込まない管理体制とは、一にかかって“バック・アップ”によって作られる。監督にはオーナーや親会社の、コーチには監督の強力なバック・アップがいる。  私が、現役時代、プレーヤーとしては、ほとんど実績がなく、しかも当時万年二位だった中日から常勝巨人に入って、どうやらやってこられたのは、このバック・アップのためだった。そして巨人選手の躾のよさにも助けられた。選手が実によくいうことを聞いてくれた。  コーチは監督にバック・アップされ信頼されていてこそ仕事が出来るのである。私は、スタッフ・ミーティングで時おり、わざと反対して議論の波を立たせることもやった。打ちあけた話、藤田、国松両コーチらは川上さんの現役時代を知るだけに尊敬と畏怖の念が勝っていて、親しい口をきけないくらいだった。  ある会議で監督のいうことにみんなが賛成した。が、私はかつて本で読んだ「会議をして全員でイエスの時は決断してはいけない」というユダヤの格言を正しいと思っているから、わざと反対して、議論のきっかけを作るのである。それにつられて若いコーチ連中からも意見が出てこそ会議であり、監督を補佐するスタッフ・ミーティングである。  私は巨人をやめる時、川上さんに「もうお前に文句をいわれんですむなあ」といわれてうれしかった。監督やスターに何もいえないコーチではダメだ。いえる者こそコーチである。そのいえる立場を作るのがまた監督のバック・アップというものなのだ。 わがブロック・サイン  グラウンドでは、想像もつかない虚々実々の“サイン合戦”がくりひろげられている。私の使命は、まずこの戦いに勝つことから始まった。単純明快で、そのうえ敵に察知されないサインをと、数式をまじえたり、スペイン語まで駆使した。V9の巨人式サイン術を思いきって初公開してみよう。  私は巨人で十三年間、この仕事をやってきたが、最初、川上さんにサインを出せといいつかった時、私は大いに慌てた。  大任をどうやったら果たせられるか、考えつめて眠れない夜もあった。家の居間の壁にタタミ一畳ほどのカガミを備えて、自作自演、主演兼観客のパントマイムを日ねもす続けたものだった。  自分の手はアンダーシャツのところに間違いなくいっているか、胸のマークをさわったつもりでも、ズレていないか、などを確認しなくてはならないからだ。さらに、 「オレは右利きだから相手は右手に注目するだろう。ならば左手で出してやろう」  とまで考えて左手を特訓したので、やがて、そちらで出すほうがスムーズになったくらいである。そのせいで私の肩は左ばかりが凝ったものだが、いまは肩の凝りもとれて、懐かしく虚々実々の「V9のサイン」を思い出している。  サインには三つの種類がある。テレビでおなじみのブロック・サインと、フラッシュ・サイン、それにホールド・サインである。  このうちホールドというのは私が中日で現役だったころのもので、ベルトに触ったらバント、腕を組んだら盗塁、ベンチの柱をつかんだらスクイズといった、古式豊かなものだ。いまプロ野球ではほとんど使われていない。  現在は、パントマイムみたいなブロック・サインと、瞬間的にパッパッと出すフラッシュ・サインの二本立てである。  まずブロック・サインから説明しよう。最初にこれを大リーグから日本へ持ち込んだのは、元巨人監督の水原さんで、以来すっかり日本に定着した。このサインには三つの系統があるが、必ずキーのあるのが特徴で、別名キー・サインとも呼ばれている。キーとはサインの起点である。 〈タッチする場合〉  私がコーチスボックスで、キーの次に手を触れる場所に意味があるサインだ。たとえばこう決めておく。帽子はバント、胸がヒット・エンド・ラン、腕が盗塁、ベルトがスクイズ。  この日のキーは「顔」だとする。私は体のあちこちをゴチャゴチャ触った後、さりげなくキーの顔に触ってから胸に触った。胸はヒット・エンド・ランである。胸のあと、また他の場所にいくら触っても、これは煙幕だ。  巨人ではキーを見破られると相手に解読される恐れがあるから、一試合に三度、三イニングごとにキーを変えていた。 〈手数〉  キーに触ってから、私が動かした手数によって作戦を知らせる方法である。これも事前に手数一はバント、二はヒット・エンド・ラン、三は盗塁、四はスクイズなどと決めておく。キーから腕、胸、帽子と手を動かせば三回動いているから盗塁である。 〈タシ算ヒキ算〉  これはちょっとややこしいので、読者諸兄は、これから巨人軍選手としてミーティングに参加したものと仮定して読んで欲しい。 まず、次の図をご覧いただこう。    胴体各部に番号をつける。私の手が、そこをどのように通過するかがこのサインのポイントである。  もうひとつ事前の約束ごとがある。ほかのサイン同様にたとえばタイプ(一)はバント、(二)はヒット・エンド・ラン、(三)は盗塁、(四)はスクイズと決めておく。むろんサインの起点もはっきりさせておく。今日のキーはアンダーシャツとしよう。  さあ、これで予備知識の段階は終えた。実例に即して説明してゆこう。  私の手がアンダーシャツから、ベルト=に触れたのち「アップ」して顔=にきた。これはマイナス=3。つまりタイプ(三)の盗塁である。    こんどはタシ算の例だ。  私の左手がアンダーシャツに触れた。次に帽子=をさりげなくかぶり直して、顔=を撫でた。帽子から顔へ手が「ダウン」するときはプラス=2とタシ算をする。この答がタイプ(二)、すなわちヒット・エンド・ランである。  あえていうと、胴体の部位を上昇してさわっていくときはヒキ算で、下降していけばタシ算である。ご理解いただけましたか。これくらいのタシ算とヒキ算は小学生でも出来るだろうが、とっさに解読するには練習が必要だ。  キャンプのミーティングの秘中の秘は、このサインの練習会である。試合で、選手も慎重に見るが、私も間違えたら大変である。うっかり引けない数式を立ててしまった場合は、あわてて取り消しのサイン「ズボンに触る」を発信してやり直しである。  以上がブロック・サインの三つの系統だが、日によって、この系統を変えたり、「気づかれた」と思ったら、すぐ変更する。  このブロック・サインより、もっと注意深く発信し受信しなくてはいけないのがフラッシュ・サインである。  昨年まで私が出していたサインの実例をいくつか挙げてみよう。  長島巨人はサインを一新しただろうから、よもや巨人の秘密を暴露することにはなるまい。 〈指一本〉  一死で一塁に柴田が出た。私は柴田に正対して人差し指を一本鼻の前に持ってくる。そして声を出す。 「いいか、ワン・アウトだぞ」  ついで打者・高田に正対して、同じようにして、ワン・アウトだぞ、という。相手ベンチには、あたかもアウト・カウントを確認しているように見える。  だが、これでサインは完了しているのだ。  柴田も高田も、私の挙げた人差し指が、私の顔の輪カク内に入っているかどうかを注意深く見ている。顔にかかっていれば「盗塁」である。柴田は走り、高田がこれを援護する。指が顔にかかっていなければなんでもない。  カウント1—1の場合にも同じようにする。この時は両手の人差し指が挙がっているか、どちらかの一本が顔にかかっていればサインが出たのだし、また顔にかかっていなくても、右指が先におりればこれは「ヒット・エンド・ラン」のサインになるのだ。 〈右手右耳、左手左耳〉  右手が右の耳に触る、左手が左耳にふれる。どちらも「エバース」=バントの構えから、バットをひいて一球見送るのサインだ。右手で左耳、左手で右耳のようにクロスすると「バスター・バント」=バントとみせて、好球必打のサイン。 〈視線〉  無死で河埜のカウントが0—2になった。河埜がバッターボックスをはずして私を見る。私が河埜と視線を合わさずお月さんや外野を見ていたら「待て」のサインだ。  逆に視線を合わせたら「打て」だ。合わすといったって恋人同士ではあるまいし、マジマジと河埜のツラを見つめたりはしない。約一秒のチラリである。 〈ヒザのお皿〉  コーチスボックスで、私は両手をヒザにおいて中腰になった。このとき、手の平でユニフォームの“お皿”の部分がかくれていたら「打て」だし、まる見えになっていたら「待て」のサインだ。 〈ストッキング〉  私は三塁コーチスボックスでただ突っ立っている。ところが足の位置はどうなっているか。右足だけが横を向いていて、バッターにストッキングとスパイクの間の白い部分が見えているかいないか。見えていれば「打て」、見えなければ「待て」のサインだ。 〈音と動作〉  三塁に走者の富田がいる。打者は土井だ。私はさかんに手を動かしサインを出している振りをした。  と、その時、ウェーティング・サークルの柳田が二本のバットをコーンコーンと小気味よく鳴らしはじめた。相手ベンチやスタンドのファンは、柳田が張切っているぜ、と思う。  だが、実はこのコーンコーンの音が「スクイズ」のサインなのだ。バットを鳴らすかわりに、バットでスパイクを叩いて音をたてる時もある。あんなに騒がしい野球場で「音のサイン」は危険ではないかと思うかもしれないが、音はあくまでも、念のため。  打者は私が意味不明のパントマイムを演じ、なお音が聞こえない時はベンチを見ることになっているから、イヤでも次打者の動作を見ることになり、たとえ音がしなくてもゼスチュアで判る仕掛けになっている。  このようにフラッシュ・サインは挙げていけばきりがない。どんどん変えて新しいものを考えていく。といってもサインの寿命をあまり短くすると混乱するから、平均寿命を一年としておくことが多かった。  私のサインは滅多に見破られたことがないが、一度だけ、大洋の松原一塁手にやられたような気がする。無死一、二塁で、私は大洋の守備態勢から、バントなどいささかも警戒していないと読んだ。そこでバントのサインを出した。  ところが、投手がセットポジションに入ると同時に、そこまでポーカーフェイスで定位置にいた松原が猛然とダッシュしてきた。「いかん」と思ったが、もう取り消しのサインを送れない。巨人の打者はバントをころがしたのだが、松原にうまく処理されて二塁走者が三封されてしまった。松原が私のサインを見破っていたのか、あるいは偶然そうなったのか、いまだに私は気になっている。  さて、いままでは、攻撃の時のサインだった。ところがサインは守備についている時にも出すのだ。だから私は休めない。私は夕方7時ごろ便意を催すことがあるので、そういう時は困る。こんな時は駆け足で用を足しに走る。  守備のフォーメイションはたくさんあるが、これもいちいちベンチが指示する。たとえば無死一、二塁。力投の堀内に疲れが出てきた。どう守るか。次の四通りがある。  一球ようすをみて出方を探るピッチドアウト  堀内得意のピック・オフ・プレー(ケン制)で二塁走者を殺す  ヒット・エンド・ランに備える  バント守備陣形を敷く  の四つである。  このような選ぶべき守備のフォーメイションが無死一、三塁、無死三塁、一死三塁……と状況に応じて、とにかくたくさんある。  ベンチは相手がどう出るかの判断を下して、どれか一つを選び出して、選手に指示しなくてはならない。  あれは、たしか47年ごろだったと記憶するが、いま書いたからまでのフォーメイションをスペイン語で呼ぶことにしたこともあった。  ABCでも1、2、3でも、どうも面白くないというのでウノ、ドス、トリス、クワトルとスペイン語の数字を当てはめておいた。  さてある試合。私は、タイプのフォーメイションをとらせようとしてベンチから、 「トリス、トリス」  と叫んだ。ベンチにいる他の選手も叫んだ。ところが長島も王もピンときていないようすだ。捕手の矢沢だけがしきりにベンチを見返るだけではないか。  私たちは「アッ」と気がついて、笑い出してしまった。矢沢のアダ名が「トリス」だったことに気がついたからだ。矢沢は柳原良平氏の描くサントリーのCM“トリスおじさん”にそっくりなので、そうアダ名をつけられていたのだ。  当時、巨人選手はスペイン語まで喋れると話題になったが、矢沢のおかげでスペイン語はその後はご用済みとなった。  またベンチからのサインを長島と王に送って、彼らから全選手に伝達する方法も用いた。  ホームグラウンドでは王が中継する。タイプのピック・オフ・プレーの守備体形やのバント・シフトのフォーメイションの指示を受けた王はマウンドヘ行って投手には口で伝えるが、その時の王の背番号の向いた塁、つまり二塁へ向いていれば、本塁に向いていればとなる。  各選手はそれを見てベンチの指示を知るという寸法である。  長島が中継するのはビジターグラウンドの時で、要領は王の場合と同じである。が、長島はマウンドヘ行ってあっちこっち動き回るものだから、どれがサインなのかわからず、王が慌てて走って行って長島の足を止めたことだった。  こんな時はベンチにいておかしくて仕方なかったが、そういう時以外のベンチはみな目を皿のようにして相手攻撃陣のサインや選手の動きを追って作戦の解読につとめている。  とくに控え選手は、ベンチにいるスパイの活動家たちである。バッターボックスの中の打者が足場を変えないか、バットを短く持たないか、走者のリードの仕方はどうかと相手のクセを見破る。相手コーチャーのサインは、手数を多く動かすほど見破りやすい。たいていブロック・サインの最初か最後の方に、秘密が隠されているようである。 三塁コーチのスパイ術  三塁コーチは単なる監督の作戦伝達員ではない。「走者より後ろに飛んだ打球」に関してすべての責任を持っている。本塁へ突入させるか、ストップをかけるか、一瞬のうちに的確な判断が要求される。そのうえ走者のいない時は相手のサインを盗み、声を出して敵の投手を攪乱するのだ。ひと口にいって、三塁コーチはグラウンド上での「監督の代行」で、非常に責任の重いセクションである。  だから昔は、監督みずからが立つことが多かった。巨人でも、川上監督になる前は水原さんが立っていて、巨人の第二期黄金時代といわれたころには、あまりやることがなくてブロック・サインの代りに小唄をうたっていたそうだ。  ところが、川上時代になって、他のいろいろな面と同じように、大リーグ・システムを採用することになった。  つまり、監督はベンチにいて、チームとゲームを総体的に総括し、士気を鼓舞し、作戦を考えることに専念して、その作戦を選手に伝達する役目を三塁コーチが分担することになった。この場合、監督を司令官とするなら、三塁コーチは戦闘部隊の先頭にいる軍曹みたいなものだ。ベンチから次の攻撃の指示を受けて、サインによって打者と走者に伝える。これが「監督の代行」の一つである。  もう一つは、二塁と三塁の走者の進退を受け持つ仕事である。これは瞬間の判断である。二塁と三塁の走者は、即得点に結びつく走者で、勝敗に直接響く重要な走者である。  二塁に走者が出た。次の打者が左前に安打した。さあ、一挙に突っ込ませるか、三塁に止めるか。このケースにどういう指示をするかの答えはたくさんある。  打球の勢い、飛んだ方向を見きわめることはもちろんだが、その他の状況——相手投手の出来はどうか、点差は何点だ、次打者そのまた次の打者は誰か、アウトカウント、相手野手の肩、走者の足、風向き、グラウンド状態など、さまざまな状況条件を瞬間的に判断して、指示を下さなくてはならない。  ベンチにいる監督の作戦を打者、走者に正しく伝え、走者の進退を指示することのほかに、三塁コーチには、相手バッテリーをケン制し、球種を盗む仕事も含まれている。  とにかく、三塁コーチは戦闘部隊の生殺与奪の命綱を握る重要で難しい仕事である。  話を戻して、さっき出した問題「二塁走者を三塁に止めるか本塁へ突入させるか」を少し具体的にみてみよう。さっきの問題の出し方は設問になっていなかった。  そこで、とりあえず、こういう問題にしてみたい。  相手投手は絶好調の松岡弘である。点差は1対0で巨人が負けている。イニングは終盤に近い。いま一死からトラの子の走者・高田が二塁に達した。次の打者は柴田だ。  さあ、こういう場合どうするか。柴田が安打した時、高田を突っ込ませるか三塁に止めるか。柴田の後には王、長島がいる。非常に難しい。  突っ込ませてアウトになれば、後にONが控えているだけに無謀な突入となりかねない。といって、松岡弘の出来からみて、ONですら確実に安打出来るかどうかは疑問である。三割打者でも、七割失敗の打者なのである。  こういう時、V9巨人は高田に思いきり本塁へ突入させた。私は腕を水車のように回して高田をけしかける。  なぜONが控えているのに突っ込ませるかといえば、松岡弘とONとの打撃のパーセンテージと、高田の足と、相手外野手の肩のパーセンテージを勘案して勝負をかけるのだ。  高田が万が一本塁でアウトになったとしても、二死二塁(本塁送球の間に二進)に柴田で、王、長島へ打順が回るのだ。ここは、三塁コーチとして“本日の勝負”をかけてみる時である。  こういうと、非常に自信のある戦術のように聞こえるが、心の中は、 「打球が小石にでもぶつかってくれないかな、ファンブルしてくれないかな、送球がそれてくれないかな」  などと“神だのみ”の心境である。走者が森だったか、矢のような送球がきたので思わず大声で、「背中に当たれ!」と怒鳴ってしまったこともあった。  走者をどう走らせるか、これはケース・バイ・ケースでひと口ではいいきれない。が、セオリーというものがある。ごく簡単にいえば、「一死の時は思いきって走らせ、無死と二死では冒険するな」ということである。無死で冒険をして走者を殺せば、これは蛮勇である。あたらチャンスをなくしてしまう。二死の場合もそうである。冒険すべきは一死の時である。  このセオリーは、三塁コーチはもとよりだが、走者も知っていなくてはいけないことである。スコアリングポジション(二塁、三塁)からの「暴走」は、一死の時にはない。思いきってトライしてよい。  よく一死から走者が走ってアウトになると「暴走」と表現するが、暴走は正確には無死または二死での冒険的走塁死のことである。  三塁コーチは、「走者より後ろに飛んだ打球」に関して責任を持つもので、走者の視野の中、つまり走者の前方に飛んだ打球は走者が判断して走るのだ。そういう時は三塁コーチを見る必要はない。  ただし、こういう、走者が自分の判断で走るケースでも、V9巨人には一つの例外があった。ONに打順が回る時である。  たとえば次に王、長島が控えている。二塁走者を無理して突っ込ませることが出来そうだ。が、三塁にストップさせる。一方、打った土井なら土井は、二塁を奪えるかもわからないが、一塁に止まる。なぜ止まるのか。二、三塁のほうが一、二塁よりいいではないか。一打2点のチャンスではないか、と思うだろう。  だが、もし土井が二塁まで走って一塁をあけてしまうと、王を敬遠されるパーセンテージがグーンとあがるのだ。ここは、走るのをやめてチームの主軸打者が敬遠されることを防ぐのだ。ただ走れば、あるいは走らせればよいというものではない。“走れ(走らせろ)ただし考えて走れ(走らせろ)”なのである。  三塁コーチは、走者が塁に出ていない時、ボケーッと立っているかといえば、そうではない。近代野球では小唄をうたっているヒマはない。  サインによってベンチの作戦を選手に伝えることのほかに、相手バッテリーを攪乱し、サインを盗んで打者に知らせることも重要な仕事の一つになっている。私はコーチスボックスから、投手をケン制し惑わすためにいろいろな手を使った。  たとえば「声」によるケン制である。投手をヤジるのではない。投手を通り越して頭越しに一塁走者に話しかけるのである。いま黒江が一塁に出た。私が、「黒江、今度はケン制がないから走れよ」というと、心得たもので、黒江も「オーケー」などと答えている。  打者のカウントが1—3になった時などには、「次のボールで走れ」。1—3からのボールを投手は決してはずせない。はずせば四球だからだ。いわれた投手は、「本当に走るのかな」と考え込む。 「無理するな、モーションを盗めたら走っていいぞ」  とやんわりいうこともある。  本当のサインはブロック・サインで出してある。盗塁のサインを出しておいて話しかける。こういうのを、一、二度やっておくと、声がサインかフェイントか判らなくなって、相手投手の頭が混乱してくる。直接ヤジるのよりはるかに効果的である。  投手に直接話しかける時は、ほめちぎる「調子いいなあ」「今日はカーブがいいな」。敵方のコーチにほめられて、相手は「本当かな?」と思う。それがいいのである。  イヤがらせとしては、捕手の構えた位置から「遠いぞ」とか「近いぞ」とか、モーションに合わせていう。いわれた方はイヤだ。  モーションのクセから球種が判れば、もちろんいちいちいってやる。クセは、ミーティングで分析して教えてあるから打者も知っているのだが、タイミングよくいい当てられると、いわれた方は腐るものだ。モーションのクセのほかにボールの握りの見える投手もいる。ボールにかける指先の位置で球種が判るのである。  球種が判らない時は「まっすぐ」といっておけばいい。なぜなら投手は半分はストレートを投げるものだから、五割は的中する勘定である。  投手の頭の周波数を狂わすことが狙いなのだ。投手はデリケートな人種だから、手の内を見破られていると思ったら、それだけで猜疑心が湧いて動揺するのだ。他チームには好投するのに、巨人にだけは弱い投手は、フォームに球種の判るクセがあるか、ボールの握りの見える投手と思って間違いない。  三塁コーチスボックスにいると、実際に捕手のサインが見えることがある。こういう時は、私は声ではなくサインによってベンチに知らせ、ベンチから声で打者に知らせる。  相手バッテリーがサインを交換し終わって、私が見破った時、私は地面を見る。この動作がサインだ。ベンチは私のサインを見て、今度は投手が投げる瞬間に「さあ行け!」と大声を上げる。また、私が地面を見る代りに打者を見つめたら、ベンチは「レッツゴー!」と声を出すことになっていた。  つまり「さあ行け」の日本語はストレート、「レッツゴー」の英語は変化球と決めてあったのだ。  このように三塁コーチは、スパイ活動もやるのだが、同時に、三塁コーチほど相手スパイに狙われるセクションはほかにない。サインを解読しようとベンチは目を皿にして見ているのである。  だが、巨人のブロック・サインは一〇〇パーセントは見破られなかった。キーをこまかく変えていけば絶対に見破られない。  マージャンの上がり手のように、一億通りに近い変化をもたせることが出来るのだ。前にも書いたように、V9巨人ではキーを3イニングごとに変えていたのである。  ついでにいえば三塁コーチはコーチスボックスにじっとしている必要はない。あの白いコの字型のボックスは、野球の習慣から作ってあるだけで、決してコーチをとじこめるためのオリやサクではないのである。バッターボックスとは話が違うのだ。  もし、相手チームがカコイを無視するコーチが気に入らなければ審判に抗議したっていい。が、それは無駄である。なぜなら野球規則にコーチが「コーチスボックスを出てはいけない」などという規則は、どこにもないのだ。 投手、この孤高の人種  50年4月5日、私は後楽園球場のラジオ放送席で、巨人が大洋と戦うオープニング・ゲームを、第三者として初めて見た。  あのゲームの勝ち負けは問題でない。V9巨人は開幕7連敗の怪記録を持っているのだから、負けたって、どうということはない。  が、ただ一つ、かねてから気にしていたおそれがもののみごとにゲームに現われていて、私は目を覆って、長島巨人の不幸を悲しんだ。  私が気にしていたことというのは、 「投手と野手との心の調和」  である。  あの日の堀内、そして翌6日の高橋一も調子が出なくて苦しんでいた。堀内は早い回から四球を出したし、高橋一は連打を浴びた。  ああいう時、V9巨人なら、三塁の長島か一塁の王、そして土井も黒江も、マウンドヘ駆け寄って、 「ホリ、リキむな、肩の力を抜いていけ」 「打たせろ、守ってやるから心配するな」  などと激励して心を鎮め、狂ったリズムと周波数を直してやる気遣いをみせたものである。そういう姿がついに二日間とも、一度も見られなかった。  マウンドで、孤独な緊張に耐えもがいている投手をバックがもり立てるのは、団体競技のABCである。それを怠ったゆえに、いや、それだけの余裕のある野手のいなかったことが、あたら二人のエースをKOに追いやったと私は見た。  だいたい、投手というのは、繊細で傷つきやすい人間なのである。  たとえていえば、女性的である。  最近の女性は強くて怖い人が多いらしいが、女性という古来のイメージにおける「女性的」のことである。  デリケートでナーバスで、野手に比べて、はるかに精神的である。感受性が強く、そしてもろい。また、協調精神より独立独歩を好む孤高の人種でもある。  名前を挙げてはさしさわりがあるかもしれないが、金田、村山、江夏らは、心の中の動きをすぐ顔に出す投手であった。  逆に、淡々と平気な顔を保っていた投手には杉下、稲尾、杉浦、堀内らがいるが、だからといってこの人たちが、周囲の出来事に精神的な影響を受けなかったかといえば、とんでもない。技としてのポーカーフェイスを身につけていたにすぎないのだ。  堀内も高橋一も他の投手も、登板の前夜はロクに眠りもせずに、相手チームのオーダーを一番から頭に描いて、データと状況を思い出し、ここはこう攻めてこう討ち取ろう、と考え続けている。頭の中で完璧《かんぺき》な攻略法を打ち立てて試合にのぞむ。その精巧な思考は、とうてい野手の及ぶところではない。  だが現実は、必ずしもそうはいかない。コントロールが1センチ狂い、バックにエラーが出、審判に不満を持つ。  そのたびに投手の心理は揺れ動き、積木細工のように作り上げてあった攻略法が徐々に崩れていく。味方が点をとってくれればいいが、凡退を繰り返していると、そのうちに、緊張と忍耐の限界がきて、瓦解していくのである。その動揺した気持ちを支えるのが、内野手の激励である。  さっき感情を顔に出さない投手として杉下氏の名前を挙げたが、あの杉下氏ですら、別所投手にホームランを打たれるとムキになったものである。二人とも、バッターが投手のときはストレートしか投げず、その速さを相手に誇示する傾向があった。互いにそれを知っているから打ちやすい。二人はポカスカとホームランを打ち合ったものである。  関本は一見、奇人変人にみえる男である。たとえばこんなふうである。  両軍ベンチもスタンドもカタズをのんで一投一打に緊張してマウンドの関本を見守っている。と、関本が打者を指さして口をとんがらせている。何ごとか? と走って行ってみると、 「あの打者のソデは、片っぽうだけがめくれてる。あれが気に入らん」  と怒っている。「そんなことどうだっていいじゃないか」となだめても、「いや、気に入らん」とふくれているのだ。  そうかと思うと、打者がボール交換を要求して審判が新しいボールを投げてよこす。それをグラブの中でこねくり回して汚して、あたかも古いボールのようにして、シャアシャアと投げ返している。  それでいて趣味はクラシックの音楽会へ行くこと、尊敬する人物は北一輝。最近読んだ本は『社会労働運動史』とくるのだから、どこか野球界ではチャンネルの違っているような感じの男である。頭はよいのだがブラック・ユーモア的なのである。  こういう変わったところだけを見て、ダメな奴という評価を下して扱ったら、金輪際《こんりんざい》、力が出ない。だから彼には「ダメじゃないか」というところを「関本ともあろうものがなんだ」というふうに扱うことが必要なのだ。おだてるのではなく、一人前の男として、信用してやることである。  新浦にも同じことがいえる。彼は、走らせたらスプリントでは巨人一、ボールのスピード、カーブの角度、フォークボールの切れ、すべて巨人一のものを持っている。  ところが彼にはまだ心身両面に幼児性が残っている。たとえばつい先ごろまでサイダーが大好きで、好きとなったら食事の時ミソ汁がわりに飲むし、しまいにはメシにぶっかけて食べたほどである。  いつもチョロチョロ、キョロキョロ挙動が定まらないため「カッパ」と呼ばれていたが、もう二十四歳である。  首脳陣もナインも、大人として接してやるべきである。日常生活でもカッパではなく「新浦」として接することに徹底すれば、巨人一の力がマウンドで出るようになるはずである。それが成功しかけていたのである。  投手はデリケートな人種だけに、余計個人差と人間性にマッチした接し方をすべきである。そうやって、選手の能力を引き出すのだが、この引き出す方法についても二、三思い当たることがある。  V9の年、倉田が8月から9月にかけて八連勝をマークした。この連勝には、きっかけがあった。その少し前、彼はよくKOされた。そこで何を考えて投げているのかを聞いてみた。 「データからみた相手打者の長所と欠点を考えて投げています」  という返事である。「ではキミが自信を持っているタマは何だ」と質問すると「近めのまっすぐ」だという。「ならばそのタマで勝負すればいいではないか」と畳みかけると、「でもデータにはこの打者はそこが危険だとありますから……」というではないか。  データに基づく相手の欠点を衝《つ》こうと思うあまり、自分の勝負球を使っていなかったのだ。これではデータに振り回されている。が、こういうマジメな優等生には、ただデータを気にするな、というだけでは不十分なのである。そこで私は倉田に、 「打たれたら責任はオレが負うから、思いきって勝負球で勝負してみろ」  と、責任を肩替りしてやったのである。これは野球に限らず、管理社会の中で人間を生かす鉄則であろう。思いきって仕事をやらすには、明確な指示を与え、そして失敗した時の責任を上司が負ってやらねばならない。  倉田は、がんじがらめの責任感とデータの束縛から解放されて、見違えるようなピッチングをするようになったのである。  投手とは、このように精神的な人間である。精神力がよほど強くなければ、あの小さなストライクゾーンに全精力をつぎ込む勝負は挑めない。その精神力を強く維持するために、孤独になり無口になり、偏屈にもなっていくのである。  私はこういう投手人種を尊敬しているが、尊敬するきっかけを目の前で作ってくれたのは堀内だった。  42年の日本シリーズ、対阪急の二回戦、イニングは忘れたが、巨人が1対0で勝っている終盤間際《まぎわ》だ。二死満塁で打者は代打の早瀬だった。  巨人の1点は、初回に走者の高倉と打者の国松がサインミスを犯し、国松が結果的に幸運なヒットを打って上げた、トラの子の1点である。  この絶体絶命のピンチを私はベンチの前列では見ていられなかった。胃がキリキリと痛んで仕方なく、私は逃げるようにベンチの奥へ引っ込んだ。一打逆転なのだから、怖くて、胃が痛くて見ていられるものではない。  この生き地獄のような局面で、堀内はカウント1—3の不利な立場から、みごと早瀬を三振に討ち取ったのだ。弱冠二十歳の若者が、緊迫した勝敗の矢面に立って、気おされることなく勝負に出て勝った。  私はこの時以来、投手を尊敬するようになった。投手の経験がないだけに「本当に大変な商売だなあ」と思うのである。  さて、人間的にはこれほど難しく、しかも常にチームの矢面に立つ大変な商売の投手たちを、われわれは組織化し管理していかねばならないのだ。  管理の基本は、投手としての力を正しく評価し、点検を怠らず、戦力としての存在価値を明確にすることである。投手という人間を管理するというより、戦力として管理することである。  投手の戦力管理とは、ひと口にいえばローテイションを確立して先発・リリーフ・締めくくりの分業制を作ることである。  この投手の分業制のはしりを作ったのは、40年の巨人であった。それまでの野球界では、エースを先発した翌日にリリーフに出したりしていたが、巨人はV9の初年度に、現巨人コーチの宮田を諦めくくり専門に起用して成功した。ご存じの“八時半の男”である。  宮田は、球威もコントロールも勝負度胸も満点だった。が、肝臓に疾患があり、しかも肉体的《ヽヽヽ》な心臓が弱かった。そのため最高の状態を維持出来るのは、せいぜい3イニングほどだった。  そこでやむをえず、宮田を締めくくり専門に起用することにした。こういう内部事情があっての分業制の誕生だったが、当時、野球先進国のアメリカにも、こういう考え方はなかった。事実42年に渡米した時も宮田について、 「日本のピッチャーは毎日投げるのかね」  と笑われたものだ。  だがどうだ。アメリカという国は恐ろしい。いいものはどんどん受け入れる。十年後の49年、約百六十試合中百六試合に登板するスーパー・リリーフのマイク・マーシャル(ドジャース)、六十八試合登板のタグ・マグロー(メッツ)らを作り出しているのである。  投手の分業化を、完全に作り上げてしまったのだ。  現在のアメリカの考え方は「投手は球威が衰えたら代えるものだ」というものだ。最初から完投は考えていない。投手はいつかは疲れて球威が落ちるのだ、だから落ちたら代える、と単純で明快に考える。  シーバーのあとには、スーパー・リリーフのタグ・マグローが用意されている。ドジャースは、サットンの球威が落ちるところからマーシャルにつなぐ分業の考え方を完成するために、チームの至宝といわれた盗塁王のウィリー・デービスを出してまで、エクスポズからこのマーシャルを取ったのだ。  そして、みごとナショナル・リーグの覇権を握った。——これがアメリカの最も進んだ投手管理の現実である。  これに似た考え方を理論化しているのが中日の近藤コーチだ。同コーチは「百球まで球威のある投手」と「三十球まで球威のある投手」とを分けている。そして、 「私は、百球までもつ投手の百一球目より、三十球しかもたない投手の最初のボールの方が威力があると思う」  といって、スコアラーにボール数を数えさせては、リリーフの切り札・星野仙を出す場所を決め、みごと中日にV1をもたらした。これが、近藤コーチの独創的な分業システムの目処《めど》である。  星野仙は、49年度最高のリリーフだった。彼はなか四日休めば完投勝利も出来る投手だ。だが、四日で一勝するのをとるか、四日のうち二試合にリリーフに出してチームが二勝するのをとるか、というチームとしての選択から「四日で二勝」のリリーフに回された。だから中日のV1は星野仙の力による、と私は思う。  巨人の倉田もリリーフとして抜群の才能がある。だが惜しいことに、星野仙のあの闘争心がない。アウトをとって「よし!」と自分を奮い立たせ、打たれて「カツ!」と自分にカツを入れる激しい闘志が倉田にもあれば、長島巨人のキーを握る男になれる、とみている。  これからのプロ野球には、星野仙のような強力なリリーフが必要である。だが、投手というものは作り上げられるものではない。最初から「いいものはいい」のである。いいものを入れるしか方法はない。  先発に向く投手は、コントロールに多少の難点はあるが球威のある投手で、リリーフに向くのは球威もコントロールも兼ね備えているが、長いイニングもたない投手である。これらいろいろなタイプの投手を選り分けて体制化するのがローテイションである。  ところで、こうやって巨人は投手の戦力管理を作ったが、巨人が戦う相手チームもまた、かなり強力な投手陣を擁している。野球は、守りそして攻める競技である。相手投手を攻め落として点を取らなければ勝てないのである。そこで、相手投手の攻略作戦が必要になってくる。  いまではたいていのチームがやっているが、V9巨人は川上監督就任以来、徹底してデータ作戦をとってきた。巨人の先乗りスコアラーは常に小松スコアラーがつとめてきた。彼は巨人が対戦するチームの直前の三試合を偵察して、あらゆるデータを収集し、チームに報告するのである。  私たちはそのデータをもとにミーティングを開き、相手投手、打者の傾向を分析して攻略法を組み立てていく。たとえばこんなふうにだ。  投手の球の種類をのみこませる。  その中からヒットになった確率の高い球種を選び出し、選手に教えてマトをしぼりやすくする。  どういうカウントからヒットになったケースが多いかを選び出し教える。ヒット・エンド・ランはどういうケースで的中しているかを分析して教える。  投手のクセを教える。たとえば振りかぶってひと呼吸おけばストレート、スムーズに投げればカーブ、というふうに。  投手の性格から球種を割り出す。たとえばカッとしたらストレート、ピンチにはカーブが多い、走者が出ると変化球が多い、というふうに。  こういうミーティングを試合前に行なうが、試合中にはネット裏にいる高橋スコアラーから、3イニングごとにデータがはいる。真後ろから見たデータ、今日の攻め方の傾向などの分析データである。  これらを参考にしてベンチが攻略法を編み出すのだが、全盛時の阪神の村山、江夏、ヤクルトの松岡弘、浅野、広島の外木場、阪急の足立、山田、宮本、昔の外人スタンカ、バッキー、ロッテの木樽らにはV9巨人もかなり手こずった。しかし、 「最低一人あたり五球投げさせろ」  とか、投手と一塁手の間に「一塁手にとらせるセーフティバント」をころがすなどの方法をとって打ち崩した。一塁手にバントを処理させるということは、つまり投手を一塁ベースまで走らせることなのだ。そうやって疲れさせて、少しでも早く球威を落とさせようという作戦だった。  よく「投手の決め球を打つ」という表現があるが、投手の調子がよい時は「決め球」など打てるわけがない。  足立は落ちる球が武器だったが、あれは、打者には落ちるように見えないからバットを振ってしまうのだ。だから、すばらしい決め球を持つ投手を打ち崩すには、決め球以外のボールを決め球をほうられる前に打つしか手がないのである。  V9巨人が、足立や山田らのエースを打ち崩した一つの作戦にバント戦法があった。これはさっきのセーフティバントで疲れさせるのとは、ちょっと違う。  たとえば、柴田が塁に出た。次打者の高田がバントして柴田を二塁に送る。  次に続くのがONである。  柴田は二塁ベースでしきりに三盗アタックのゼスチュアをする。一打生還の場面だから三盗の必要は必ずしもないのだが、足立に「三盗される」と思わせることが狙いである。  足立は、三盗を警戒してモーションを小さくする。そのほんのささいな細工が精巧な足立を狂わせて球威が落ち、コントロールが乱れる。しかも打席にはONと続くのだ。この精神的負担で足立は、早い回からヒヤ汗と本当の汗をかくことになる。  実際、夏など三塁コーチスボックスから見ていると、投手は投げるたびに全身から汗を飛び散らせている。汗がカクテル光線の加減で虹のように光っていることさえあるのだ。すさまじい闘争である。  V9巨人はよく早い回から、このようなバント作戦を敢行した。マスコミからは、 「一回から1点欲しい貧乏野球」  などと叩かれたが、実際の話、先制点も欲しいには欲しいが、それよりも早い回から投手に精神的負担をかけ汗をかかせて、少しでも早くくたばらせるのが主な目的だった。  柴田、高田という機動作戦の先兵の後に、ONという二門の大砲があったから出来た作戦だが、V9以後の巨人にはそのONがいない。長島監督もやりにくかろう。 ローテイションの秘密  ペナント・レースを戦って行くうえで、巨人には、他のチームとは違った一面がある。  それは、巨人と対戦するチームが、 「ホームグラウンドの対巨人第一戦にエースをぶつける」  という特殊なローテイションを組んでくることである。巨人戦の前と後のローテイションを無視して、とにかく巨人戦、とくにその第一戦に温存していたエースをぶつけてくるのである。  なぜ他チームが、こういう対巨人第一戦必勝ローテイションを組むかといえば、まず第一に、人気のある巨人を初戦で叩いて、あとの二試合の観客動員数をふやしたいためである。中日、広島、甲子園の三球場では、第一戦の勝敗によって以後の客足が二、三割方左右されるという話を聞いたことがある。地元ファンというものは、強い巨人をやっつけてこそ熱狂するものなのだ。  だから、球団の上層部は、現場に「第一戦必勝」を要請するらしい。  第二に、こういう上層部の意向を受けた現場には現場としての思惑がある。名前は言えないが、V9巨人時代のあるチームの監督がこうもらしたことがある。 「巨人に勝ちさえすれば、少々順位が悪くても、上層部の評価を得ることが出来るんだよ」  もちろん現場には、第一戦に勝てば2勝1敗という計算もあるのだが、そのほかに、自分のクビに関わる政治的なプラスアルファーがあったのである。  という訳で、V9巨人は行く先々で、手ぐすねひくエースにお出迎えされ、親の敵《かたき》のように狙われた。  だが、巨人は、他の五球団がこういう巨人集中ローテイションを組んでくれたおかげでV9を達成することが出来たのである。  もちろん、そのエースたちを巨人打線が、打ちくだいたことが直接的な勝因だが、他チームは巨人戦のためにローテイションを崩し、その結果、巨人戦前後のカードで取りこぼしてくれたからである。  V9は、こうした他五球団の意識的なローテイションの自壊作用にどれだけ助けられたか判らない。これこそV9の秘密の一つといってよいだろう。  投手のローテイションとは、長いペナント・レースの死命を制する最も重要なポイントなのである。ローテイション作りは、キャンプ、オープン戦のころから、周到な計画をもって準備される。それでもなかなか考えたとおりにいくものではない。  川上さんは、V10ならずの49年ですら、 「ローテイションが八○パーセント、いや七〇パーセント確立出来ていたら勝てた」  といっていた。他の五球団のような特殊な条件がない巨人ですら七割の確立が難しかったのだ。  いまここに、V9の年、48年のオープン戦とペナント序盤戦のローテイション・データがある。これ一つを見ても、巨人の狙いと悩みと試行錯誤のサマがよく判る。  この年、私たちは新浦を先発ローテイションに組む計画を持っていた。すでに実績のある堀内と高橋一につぐ、第三の先発投手作りである。この基本構想に基づいて、新浦は二十三試合のオープン戦のうち七回という多い登板を与えられた。  新浦は、私たちの期待を背負ってよく頑張って、3月24日の阪急戦、岡山球場で、三安打完封の素晴しいピッチングをした。  川上さんは「さあ、大スターの誕生だぞ」と大喜びし、ナインも激励の意をこめて祝福した。ちょうど50年、アメリカでブレーブスを完封した島野のようなものである。  だが、この喜びは束の間だった。シーズンに入って新浦はまるで活躍してくれなかった。そればかりか、ローテイションの軸とたのんだ堀内も腰を悪くして、5月はじめに二軍落ちという最悪のケースになってしまった。  頼りの先発が高橋一だけでは、ローテイションは火の車である。そこで急遽、高橋一を軸として、中間リリーフに予定していた関本を先発に組み入れるローテイションの大手術を行なって、堀内の回復を待った。  川上さんは軸である高橋一を、非常に大事に使って堀内を待った。高橋一だけは中三日ないし中四日あけて登板という規則正しいローテイションから動かさなかったのだ。この辛抱強い我慢が、ペナント・レース最終戦で優勝決定という奇跡につながった。あの奇跡は、川上さんの我慢があってこそ可能だったのである。  とにかく、堀内と高橋一は一年おきにしか働かなかったのだから、V9の間中、投手部門の苦労と我慢は絶えることがなかった。  オープン戦は、いわばペナント・レースのローテイションの助走の期間である。この間に、すでに力の判っている投手には開幕に照準を合わせた調整を行なわせ、一方いまだ力やタイプの判らない投手の適性を見る。  48年でいうと、堀内、高橋一、関本は前者で、新浦はテスト、玉井や小川、小林、島野、松尾らは力と適性発見のための登板であった。この後者の中から、小川にリリーフとして使える目処が立ち、玉井と小林は、はっきりした結論を出すまでに至らなかった。  だが、オープン戦の成績は、往々にしてアテにならない。アテにならないのに、48年の新浦のようにアテにしてしまうところに、投手陣の弱いチームの哀しみがある。  先発として実績のある投手は、開幕に合わせた調整をする。私は49年、アメリカでメッツのキャンプを見たが、エースのトム・シーバーのやり方に感心した。そこで、オープン戦におけるエースの調整スケジュールをシーバーを例にとってみてみよう。  私が見せてもらったシーバーのスケジュール表はこうなっていた。 3月22日 試合登板5イニング、50球 同 23日 完全休養 同 24日 ランニング15回(1回はレフトからライトまで)、バッティング5分間 同 25日 前日と同じ 同 26日 試合登板7イニング、76球 同 27日 完全休養 同 28日 ランニング15回、バッティング5分間、ウォームアップ50球 同 29日 前日と同じ 同 30日 試合登板7イニング、80球 同 31日 完全休養 4月1日 ランニング15回、バッティング5分間、ウォームアップ50球 同 2日 前日と同じ 同 3日 開幕試合に登板  オープン戦でも、中三日で規則正しく登板するのである。そしてゲームに投げた翌日は、他の選手が練習していようと試合していようと、完全に休養するのである。練習内容も規則正しいというより機械的とさえ思われる正確なスケジュールにのっとって行なわれている。  シーバーの次の日の登板予定者は、二番手のエース、マトラックだが、もしシーバーの登板予定日が雨で中止のような場合には、一日ずらしてマトラックの登板を譲り受ける。マトラックは次の自分の登板予定日まで登板が回ってこない。  ローテイションの軸であるシーバーのスケジュールが最優先で、別格扱いして調整させるのである。  日本では、ここまではっきりしたローテイションをオープン戦の段階から組むことはないが、近い将来はアメリカのようなシステムをとり入れて、エースを大事にすることが必要になってくると思う。  なぜなら、優秀な投手というものは作り出せるものではないし、人数が限定されている「球団の財産」だからである。そして、各チームの力が接近してくると、いきおい投手ローテイションの確立こそが“Vへの道”になってくるからである。  日本で、エースを大事にし、ローテイション思想を貫いた監督は元阪神の藤本さんであった。藤本さんは、古くは杉下、杉浦、稲尾、金田、権藤、秋山という鉄腕投手たちが花々しい連投をしている時でも、決して村山、小山、バッキーら阪神のエースたちを酷使しなかった。だからこそ村山も小山も投手寿命を持ち長らえたのである。  ついで川上さんだった。藤本さんに比べて持ち駒が不足していたが、ローテイションを守る努力を怠らなかったからこそ、九年間も覇権を握ることが出来たのである。  広島のルーツ前監督も、アメリカ野球出身の人だけあって、外木場を大事に使った。外木場の球威が見違えるように生き返ったのはルーツ前監督が彼を軸として、中三日か四日の間隔をおいて使ったからであった。  ローテイションは、このように軸になる先発投手を中心に組まれるものだが、先発が打たれた場合のためのリリーフ体制の整備もまたローテイションの重要な部分を占めている。  V9巨人では、少なくとも向こう六試合分のリリーフ体制を、一試合につき三〜四人用意してあった。  たとえば、先発・関本、中間リリーフ・小川、締めくくり・倉田。あるいは高橋一—菅原(退団)—小川というふうにである。投げ方のタイプ、球種、勝負球などを考え合わせてバラエティに富んだ編成をするのである。しかも、勝つためのリレーと負けてもやむをえないリレーの二通りをつくる。負けても仕方ない場合、つまり敗戦処理には、超ベテランか若手投手を当てていた。  だから、新浦が打たれた後に、小林—小川—高橋良という投法の似た投手をリレーするようなことや、大差なのに中間リリーフの切り札などを投入することはやらなかった。  先発投手が打たれるのは、まず第一番に調子が悪い時、第二に調子はよかったのだが疲れてきて球威が落ちた時、第三に打者にタマに慣れられた時、第四に配球(攻め方)を読み切られた時、などが挙げられる。  さて問題は、では、いつどのあたりで投手を交代させるか、一番難しい投手リレーに移っていく。  巨人で私は、実はこの役割を受け持ってはいなかった。投手交代はほとんど監督の権限で行なうもので、時として投手コーチのアドバイスが求められるものである。川上さんは「私は投手のことは判らない」といいながら、旺盛な研究心で投手コーチから勉強していた。  藤田コーチに、「ピッチング・フォームがどうなったら限界なのか、各投手についてクセを教えてくれ」と、一人一人の「正しいフォーム」と「崩れたフォーム」を教わっていた。ベンチで見ていても、球威が落ちているかいないかは判るのだが、それをより具体的に見極めるための目安が欲しかったようである。  五、六年前までは、中尾さんや藤田コーチに、「おい、カズミの左足の踏み出しは、横に流れすぎておらんか」とか「ホリの腰は開いとるのじゃないか」と、少し打たれるとソワソワして訊いたものだが、三、四年前からは、フォームの崩れを的確に見抜くまでになっていたようだ。  また、ブルペン捕手の淡河に「ブルペンでの調子のよし悪しを数字で現わすことは出来んか」と注文した。  淡河は、本人の最高の力を10として、スピード何点、カーブの切れ何点、コントロール何点、という表を作って試合前に提出していた。  川上さんはその数字を頭に入れて、リリーフの用意を命じた。  投手と相手打者との「相性」もリレー等の場合の一つの決め手である。データの裏付けによる得手《えて》不得手である。有名なものに小川対シピンがある。アメリカには下手投げ投手は、皆無に等しいくらい少ないから、たいていの外人は下手投げをニガ手にするのだが、シピンの場合は特別である。堀内や高橋一には4割近い打率をマークした48、49年の二年間で、シピンは小川からは2割3分しか打っていないのだ。  堀内は中日の島谷をニガ手にしている。が、高橋一にとってはカモだ。末次は外木場に対してだけは5割バッターで、柴田、高田は江夏が大好きである。こういう不思議な現象を忘れては、リレー策を成功させることは出来ない。  川上さんは、踏んぎりのつかない時、中尾、藤田コーチに意見を訊いた。川上さんや私のように野手出身のものは、どちらかというと「代えたがり屋」である。すぐ不安になる。が、投手出身の人はその逆である。 「おい、代えるぞ」 「いや監督、ここは堀内に踏んばらせてください」  こういうやりとりを私は何遍も聞いている。その結果、投手が踏んばって勝てると、新聞や解説者は「川上はよく我慢した」と書く。  逆に、踏んばれなくて負けると「川上は投手交代に失敗した」と書かれる。  どの道、勝負の責任は監督にいくのである。コーチは、自分の信念を素直に述べるべきである。  これは余談だが、堀内が入団した41年、藤田コーチが、「あした投げさせる投手がいない」と頭をかかえていた。そこで私は門外漢の強味で、 「誰もいないならルーキーの堀内に投げさせたらいいじゃないか」  といった。すると藤田コーチの顔がパッと明るくなった。彼は、堀内に投げさせたいと監督にいいたいが踏んぎりがつかなくて迷っていたのだった。  踏んぎりをつけて堀内をデビューさせたところ、予想以上の好投をして、あれよあれよという間に、十三連勝の新人最多連勝記録を作ってしまった。  投手の限界を見極められなくては監督、コーチはつとまらない。川上さんはさまざまな努力をして見極める目を身につけたが、中日の近藤コーチは、各投手にそれぞれAは百球、Bは三十球、と「限界球数」を作って、そこまできたら、見た目の調子にかかわらずスイッチする新方式である。巨人の場合は、そこまではっきりはさせていなかったが、スコアラーのつける球数はむろん参考にしていた。  さて、ローテイションを中心とした投手起用の概観は以上で終わるが、アメリカに面白い話があるから紹介しておこう。  数年前に、ドジャースがワールド・シリーズに出場した時のことである。エースはコーファックスである。当然、第一戦はエースのはずだが、コーファックスが登板しないでド軍は負けた。  どうして第一戦にエースを立てなかったか? その理由は、第一戦の曜日が「土曜日」だったからである。  コーファックスは熱心なユダヤ教徒だった。ユダヤ教では土曜日は安息日で、仕事をしてはいけないばかりか、買いものも料理も、字を書いてもヒゲすらそってはいけない日なのである。マウンドに上がってボールでもほうろうものなら、戒律を犯した大罪になってしまうのだ。  V9の最初の年に、全試合の半分以上に登板して活躍した“八時半の男”宮田がユダヤ教徒でなくて、幸いだった。 ドラマは無死一塁から  野球の醍醐味は「ノーアウト、ランナー一塁」にある、と私は思っている。両軍ベンチはこの場面から実質的な戦いに入る。バントで送るかヒット・エンド・ランを敢行させるか、または盗塁か——。当然、守る側も秘術を尽して走者を殺そうとする。両監督による虚々実々の“ジャンケン”が始まるのだ。  ベンチの作戦は、審判が右手を挙げて宣告するプレーボールでは開始されない。両軍ベンチが目に見えない火花を散らして作戦を展開するのは、走者が一塁に出た時である。その瞬間が波乱万丈の野球が切って落とされる幕あきである。  ところで、いまモノモノしく作戦とか采配とかいったが、攻め方にも、守り方にもセオリーがある。だいたいの手が決まっている。だからベンチの作戦は、その時の状況に応じてグーを出すかチョキを出すかの選択である。それを瞬間的に判断し、一球ごとにグーだ、チョキだと、両軍で出し合うのである。だから川上さんはいつも、 「私は相手のベンチに坐って考えるのだよ」といっておられた。  まず〈攻める方〉の作戦から入ってみよう。  巨人は一回の表、阪神を三者凡退にうちとって、一回の裏の攻撃に入った。トップの柴田が四球を選んで一塁走者になった。ベンチの川上監督から、三塁コーチの私にサインが飛んでくる。  この場合、考えられる作戦は大きく分けて次の四つである。  バント  ヒット・エンド・ラン  スチール  バント・エンド・ラン  これが攻撃の種類である。  ところがベンチから私に、次のようなサインが飛んできた。 「バントで送りたい。が、相手の出方をみるために、まず“テイク”(待て)のサインを発信せよ」  すぐさま私は二番の高田と走者の柴田に「テイク」のサインを出す。サインを受けた高田は「オーケー」とうなずいておいて、一球目のボールにバントの構えをした。そしてスッとバットを引いた。高田のゼスチュアにつられて阪神守備陣がどう動いたか、ベンチで観察した川上さんが二球目のサインを送ってくる。  高田がバントの構えからバットをスッと引いたのは「エバース」というものである。V9の選手たちは、ただ「テイク」だからといってボサッとしていない。なぜ「テイク」なのかを考えて自発的に「エバース」をやる高等戦術を身につけていた。  二球目も「テイク」である。  今度は、打つゼスチュアをしたが、阪神の江夏—田淵のバッテリーはウエストしてきた。カウントは0−2である。  さあ、阪神ベンチは考える。0−2からならバントだけでなくヒット・エンド・ランも考えられる。相手内野手が自軍ベンチを見て、バント・シフトを敷くべきかヒット・エンド・ランに備えるべきか指示を仰いでいる。  相手に考えさせた分だけ、巨人が有利である。三球目、高田はストライクかボールかきわどいタマを一塁線に落として犠牲バントを成功させた。柴田はゆうゆう二塁に達した。  無死一塁の場合、考えることはただ一点、走者をスコアリングポジションの二塁へ送ることである。この場合は、高校野球でもプロ野球でも、犠牲バントが最も確率が高い。誰がやっても、七、八割の成功率がある。バントの名手である土井や高田なら九割の確率がある。  だが、無死一塁の走者に、必ずしもトップ打者がなるとは限らず、したがって次打者がバントのうまい打者とは限らない。二回以後は誰もが走者になる。  だから、走者の足、打者の技術、次打者の打順を考え、これに相手投手の守備の上手下手、グラウンド状態、風向きなど、いつの場合でも頭に入れておかねばならない諸条件を勘案して、作戦を立てるのはもちろんである。  同じバントでも、バスター・バントとプッシュ・バントが、犠牲バントのほかにあるのである。  いま七番の森が一塁に出た。次打者は投手の高橋一である。サインは「バスター・バント」と出た。バスターというのは、軽くほおを叩くという意味で、バントの構えをしておいて投手が投げると同時にバットを戻して打つ打法である。  高橋一は投手だから当然犠牲バントを想定して一塁手と三塁手がダッシュしてくる。そこをチョコンと打つのだから、本来なら三塁ゴロなのに安打になる可能性が強いのだ。  あるいは打者が土井なら「プッシュ・バント」のサインが出る。これは打球を二塁の正面へころがすバントである。一塁手と三塁手が前進してくる、二塁手が一塁目がけて走る。そのシフトを破って、二塁手がいつも守っている方向へ強くころがすのだ。二塁手が慌てて戻ってとったが一塁ベースが空っぽだ。  これは正面をつけば強すぎても弱すぎても二封される難しいバントで、オールセーフを狙う高度なバント攻撃である。  もうひとつバント・エンド・ランがある。一塁走者が足のおそい選手で打者がバントの上手なものである場合に用いるが、打者はストライク以外でもバントしなくてはいけない。一塁走者はスチールのつもりで走る、それを助けるバントだからである。  以上でほぼお判りいただけたと思うが、無死一塁のケースでは、圧倒的に「バント作戦」が多いのである。  もちろん相手も承知の上でバント・シフトを敷いてくる。が、シフトを破って打って出て成功する確率と、シフトの中ででもバントが成功する確率とでは、私は後者のほうが高いと思っている。前者の確率は五割以下、後者は少なくても七割から八割、バントのうまいものなら九割の成功率が見込めるのである。  V9巨人では、無死一塁ではあまりヒット・エンド・ランを使わなかった。ヒット・エンド・ランは、中国語でいうなら「必走必打」である。必走のほうはよいとしても、マトモでも打てないのに「必打」せよというのは、バントよりはるかに難しい。右方向にゴロを打てばよいという基本があるが、一つ間違えば併殺である。  だからV9巨人では、相手投手がコントロールのよい投手で、走者の足が早い時に用いることが多かった。走者の足が早ければ、カラ振りしてもスチール成功の結果が期待出来るからである。  それと、下位打線で使うことが多かった。たとえ二塁に送っても次が投手であって代打を出せないような場合には、ヒット・エンド・ランをかけるか強打させるかしたものだった。  とにかくバントの成功率は高い。が、犠牲バントは“ボールが死んで”いなくてはいけない。死んだボールが一塁走者を生かすのである。  ボールを殺すには、バットの先端から10センチないし15センチのところにボールを当てればいい。そうすればボールは必ず死ぬ。もしそれが出来ない人は右のグリップを固く握って左のグリップをゆるめておくことだ。そうしておけばボールが当たった時、ゆるいグリップが手の中で動いて、衝撃が殺されてボールが死ぬ。  よく、当たった瞬間にバットを引けという教え方があるが、これはフライになる危険性があるから正しくない。死んだバントは、フィールディング1の堀内でも、二塁へ投げて殺すことは出来ない。  バントは誰でも練習すればうまくなる。バントは野球の基本である。生涯に二、三度しかバントをしなかった長島もうまかったし、王もまた毎日練習しているのである。  投手の中には、かつての魔球投手・杉下さんのように、 「バントほどありがたいものはない。なにしろワザと一死くれるんだからな」  という剛のものもいるが、これは例外である。犠牲バントは確実に走者を二塁へ送れ、そして投手の心理を圧迫出来る武器なのである。  もちろんスチールは、成功すればバントよりよいのは当然だが、V9巨人では、たとえば柴田のスチールの確率が六割であっても、土井に犠牲バントさせれば九割の確率で二塁に走者を送れる以上、バントの方が選ばれたのである。  ただし、確率が八○パーセント以上あれば別である。柴田が七十盗塁した42年はフリーパスだった。フリーパスで走りたければ、成功率を上げて監督の信頼を得なくてはならないのだ。  無死一塁でフリーパスで打てたのはONだけである。この二人にはサインで束縛することなく奔放に打たせたものだ。が、長島には二、三度バントのサインと、カウント1—3、2—3の時にヒット・エンド・ランのサインを数回出したことがあった。  さて、次は〈守る側〉である。  無死一塁ではバント攻撃が圧倒的に多いのである。そこでこのケースでの守り方は「バント・シフト」ということになる。  古いシフトは、投手と三塁手がダッシュして二人でやるものだったが、そこへ一塁手も加わることになった。堀内の投球に合わせてONが猛然とダッシュしてきたアレだ。一塁には二塁手が入る。現在はこのシフトがバント・シフトの定型になっている。  ところが、このシフトからピック・オフ・プレー(ケン制)がアメリカで生まれ、V9巨人はいち早く輸入した。  阪神戦で長島巨人がやっていたから、その場面を借りよう。  三回、古沢が中前安打で出塁した。打者はトップの中村勝だ。一球目、長島監督からいましもピック・オフ・プレーのサインが出た。  高橋一がセットポジションからモーションに入った。と、一塁の王が猛烈なダッシュでホーム前2メートルの至近距離まで前進した。高橋一の投げたタマは高いボールだ。中村勝はバットを引っ込めた。タマが吉田のミットに音たてて入った。  次の瞬間、吉田から一塁ベースヘ矢のようなボールが送られた。ベースでは二塁から全力疾走してきた土井が走りざまボールを受けて古沢にタッチした。間一髪、古沢の足が速くてアウトには出来なかったが、巨人の得意とするピック・オフ・プレーである。  この場合、全野手にサインが徹底していることが条件であるうえに、高橋一が「バントも強打も出来ないピッチドアウトのボール」を投げることが絶対条件だ。そういう安全策をとったうえで王がオトリになってダッシュするのである。このプレーは一塁走者を殺すだけでなく、殺せなくても相手ベンチに見せつけて脅かすことが狙いである。  また、王が走者よりも前進守備を敷いておいて、土井が足音を忍ばせてベースに入ってケン制して走者のリードを殺すプレーや、逆に足音を立てて、ベースに入ったと思わせるフェイントも用いる。  走者を惑わし、併せて相手ベンチを威嚇するのである。これらのプレーには1、2、3などの番号をつけてあるが、それでは相手に判ってしまうとあって、スペイン語を用いた話はすでに書いたとおりである。  バント・シフトは、チームプレーであり、したがって全野手のタイミングが肝心である。  二塁手が一塁に入り、遊撃手が二塁ベースに入るタイミングを誤ると、とんでもないゴロがヒットになってしまうのだ。だから二塁手と遊撃手の心得は、 「バントの構えを見てからベースに走る。まず守ってそれからベースに入る。早く入りすぎてはいけない」  ということだ。打ってくるものと思ってギリギリまで我慢して、それからベース目がけて走るのである。  また一塁手には、投手とサインを交換しておいて、ダッシュして出て行ってすぐベースに引き返してケン制球を受けるトリックプレーもある。  このトリックプレーや先ほどのピック・オフ・プレーなど、急造一塁手ではやれない。短時日では教え込めないし、システムを覚えても他の選手とのタイミングが合わない。  V9巨人では毎年キャンプで丹念に反復練習して身につけた。36年に巨人が最初にシフトを敷いた時は、面白いように引っかかったが、翌37年には各チームともやるようになった。そこで各種のピック・オフ・プレーまでマスターしたのだが、パ・リーグの代表と戦った日本シリーズでは、ピック・オフ・プレーで危機を脱出したことがたびたびあったものである。  このように無死一塁のケースは、オーバーにいえば“バントの攻防戦”である。  それも、一球一球、バントかテイクか、あるいは強打かと、虚々実々の駆け引きの中で展開されるのだ。ところが、この駆け引きには、監督の性格が反映されていることが多い。  川上さんはバントが多かった。ご自分は現役時代、バントには縁のなかった人だが、監督になってからはバント好きになった。しかもいったんバントのサインを出すと、しつこく押し通した。私がこのカウントなら強打に切り替えるかな、と思っても替えない。私がそう思うくらいだから、やめたあと広島の根本監督が、 「今度こそバントじゃないだろうとシフトを解くと、まんまとバントをやられたよ」  とあきれていたのは当然だろう。根気よいとか一徹というより、それが川上さんの作戦勝ちだったのだ。  投手出身の村山元阪神監督、大洋の秋山監督もバントが好きのようである。投手時代の経験から一点でも、早く多く点を欲しいと思うのであろう。  ヤクルトの荒川監督は、三原さんと監督を交代した時、 「高校野球みたいなバントはやらん」  と気炎をあげていたが、実際に監督をやってからは、よくバントを用いるようになった。  監督とは、背に腹をかえられない商売のようである。  いま私は「無死走者一塁」における攻防を取りあげたが、こんどは一歩進めて「無死走者一、二塁」を考えたい。  無死走者一、二塁で攻撃側が最も恐れることは、強攻してダブルプレーになり、一瞬の間に二死走者三塁になることである。そういうとき、スタンドのファンは「アーア」と長嘆息し、ベンチでは監督がイスを蹴っとばしている。  川上さんならさしずめ貧乏ゆすりが一段と激しくなるところだが、こういう時、大地震が巨人ベンチをゆすることは少なかった。なぜならV9巨人は、ここでもON以外は、バント攻撃が主戦法だったからである。いや、巨人でなくても、無死一、二塁ではバントをかけて、まず走者を二、三塁に進めることが攻撃のセオリーになっている。  バント攻撃がセオリーであるなら、それに対処するバント・シチュエーションを確立し、マスターしておくことが勝つための防御ということになる。  V9巨人はそのチームプレーを完成し、自家薬籠中のものにしていた。その全容をここに公開しよう。 〈バント・シチュエーション〉  これは最も基本的なものである。  いま堀内が、突如制球を乱して一、二塁に走者を出した。ベンチからグラウンド上のサイン中継者の王に、 「シチュエーションの陣形をとれ」  とサインが飛んだ。王はマウンドに駆け寄って、背番号「1」を一塁ベースに向けたまま二秒三秒。堀内には「でいくぞ」と伝えている。この背番号が向いたベースの数、ここでは一塁の「一」が「シチュエーション」のサインなのである。王の動作を三塁の長島も土井も黒江も確認した。  堀内はセットポジションから二塁走者をひと睨みしてホームヘ投げた。投げてすぐ三本間の方向ヘマウンドを駆け下りた。ボールは堀内の目の前に転がっている。長島はベースの横やや左前方の前進守備の位置から、堀内と打球の位置を確認して直ちに三塁ベースヘ駆け戻った。堀内はゴロを取りざま、体を一回転させて三塁ベースの長島へ矢のようなスローイング。アウトだ。 「さすが堀内だ、フィールディングがうまいなあ」  スタンドはやんやの喝采である。が、フィールディングもうまいにはうまいが、その前に、堀内はバントのゴロが三本間の方向に転がるタマ、つまりインコースのバントしやすいタマを投げていたのである。バントをすれば必然的に転がってくるところに体を移し、ゴロを取った時、三塁べースに長島が入っていることを知っているからこそ、振り向きざまスローイング出来たのである。  巨人が完全に相手をハメているのだ。  だが、この「」で最も難しいのは実は投手ではなく、三塁手の動きである。  相手ベンチは、三塁線へ強目のバントを転がして「三塁手に取らせる」ことが目的なのである。二塁走者を無事に三塁に送り込むには、三塁ベースをカラにしなくてはならないからである。だからうまい打者は、投手では取れない強目のバントをしてくる。  三塁手はこういう相手の攻撃策を頭に入れておかなくてはならない。いくら守備のうまい堀内であっても取れないバントをされることがある。堀内が取れなかった時、三塁フォースアウトをあきらめて、前進してバント・ゴロを取って一塁でアウトにする義務が生じるのである。  だから長島は、前進守備の位置で、堀内がバント・ゴロを取ったかどうか、それを確認するまで、動きたい体を止めて我慢していなくてはならない。  この確認と我慢を忘れて三塁へ駆け込んだのでは、堀内が抜かれたバントは内野安打になって、巨人はノーアウト満塁の重大ピンチに陥ってしまうのである。「I」のシフトは、三塁手と投手とが中心になって行なうバント対策である。 〈バント・シチュエーション〉  これは内野手全員、いや、外野手も全員バック・アップに加わるから、全野手のチームプレーである。  マウンド上で関本に「のシフトだぞ」と耳打ちしている王の背中が二塁を向いている。スタンドでは、 「王が関本を激励しているよ」  と見ている時、ベンチ—王を経由した防御レーダーが無言のうちに全ナインに伝わっているのである。  関本は二塁走者をチラチラと見ながら、セットポジションで構えている。と、ショートの黒江がクククッと二塁ベースに入ったと思ったら、守備位置に帰りかけたその足で、いきなり三塁目がけてダッシュした。走者より2メートル先に出た。  その姿を関本は視界のスミでとらえた。まさにこの時である。関本がホームヘ投げるのは。  同時に長島と王が猛然とダッシュして出る。投げた関本も真正面へ駆け下りていく。バントのゴロを長島が取った。振り向きざま三塁へ投げる。三塁ベースには走者より速く黒江が入っている。アウトだ。バントを処理したのが長島でなくて王であっても関本であっても、三塁へ投げて二塁走者を“三塁で必殺”するのだ。この時、一塁ベースには二塁手の土井が入り、センターの柴田は俊足をとばして二塁ベースに向かう。末次と高田は一塁と三塁のバック・アップをしているのである。  の動きでは、ショートの動きが難しい。必ず一旦、二塁ベースに入って走者を逆モーションにして、それから走者より3メートルないし3メートル50速く三塁ベースに到達しなくてはならない。しかも、走者より2メートル先行した時点、すなわち投手がホームヘ投げる時点を的確に投手へ知らせなくてはならない。  だが、このシチュエーションには非常な危険が伴っている。なぜなら、もしバントでなくショートの定位置を目がけてゴロを打たれたらどうなるか。  いうまでもなく遊撃ゴロが左前安打になって二塁走者を生還させてしまう。  ベンチは、だからこの「」のサインを出す時は、ゲームの後半で、得点差からみて、百発百中バントだと踏んだ場合にのみ出すのだ。このシチュエーションを取るか取らないか、それはべンチの勝負である。逆を衝かれたらベンチの負けである。  決まればこれほど見事なチームプレーはないが、それだけに破局の惨劇も大きいのである。  この「」の戦法を応用して、巨人は一つのピック・オフ・プレーを作った。 〈バント・シチュエーション〉  ショートの黒江がいまにもクククッと二塁ベースヘ駆け込んだあと、三塁へ突進するごとくダッシュした。走者がその動きにつられてリードを大きくした。  この時、二塁手の土井がススッと足音を殺して二塁ベースに入りかける。その動きを捕手がサインで投手に知らせる。投手は間髪を入れずクルッと体をひねって二塁ベースヘ速いタマを投げる。  この、トリックにも似たピック・オフ・プレーは森—堀内—土井の十八番だった。絶品といってよい名チームプレーで、川上さんはV8の年の夏の阪神戦で、これをやるために捕手を吉田から森にわざわざ代えて、交代した1球目にものの見事に二塁走者を殺したことがあった。  このプレーは、必ずしも走者を殺せなくてもよい。無死一塁の時のトリック・プレー——王が前進して、投手がウエストボールを投げて、一塁に土井が入って走者を殺す——と同じように、走者のリードを少なくするだけでも効果は十分なのである。  では次に、シチュエーションのである。 〈バント・シチュエーション〉  これは、一塁走者の足がおそくて、得点差が、最少でも2点以上勝っている時に用いる戦法である。もちろんその後の打順、残りのイニングなどの状況から、 「1点やっちゃっても仕方ない」  とベンチが判断した時である。  投手、三塁手、一塁手がバント処理のために前進し、ショートが二塁ベースに入って一塁走者を二塁で殺すプレーである。  つまり二塁走者に三塁ベースを与える代りに、一塁走者を“二塁で必殺”するのだ。もし1点を与えても得点差はまだ1点ある。だから三塁へ走者を行かせてもよい。だが、「タイニング・ランナーをスコアリング・ポジションに行かせない」という断固たる決意のもとに行なうプレーである。二、三塁にしては一打同点だから、走者を一、三塁で残し、次の打者を併殺にとろうという作戦だ。バントした走者の足がおそければゲッツーも可能なのである。  以上の、、、がバント攻撃を守る側の防御網の基本シチュエーションである。このうちどの防御網を敷くかはベンチの決断である。が、不思議なもので、相手がバントしてくるか、してくるならどのようなバントをするか、あるいは強攻策をとってくるかの“気配”が、必ず漂ってくるものである。  もちろんゲーム展開上の諸条件(イニング、得点差、走者・打者の実力、アウトカウント、投手のフィールディングの上手下手、グラウンド状態など)のほかに相手ベンチの動きや打者、走者の動きをよく見ていると、プーンと匂ってくるものである。それが鮮明に匂わない時は、一球一球シチュエーションを変えてみて、相手の出方を探るのである。  王を使って「フェイント」を試みる時もある。これは、王が「バントなどどこ吹く風」と、一旦バックして深く守る。その守りを見て、相手は「それバントだ!」とバントのサインを出す。  ところがこの王の動きがワナなのだ。王は投手のモーションと同時にホームヘ突っ込んでいく。相手ベンチが慌てても、もうサインを出した後だ。取り消そうにもインプレーで取り消せない。裏の裏をかいて、飛んで火に入る夏の虫を殺すのである。  V9のナインは、この種のフェイントもうまい者ばかりだった。長島がさもの動きのように前進してきて、途中で下がって相手ベンチをケン制したり、黒江がの時にの動き(三塁に走る格好)をしたりしていたものである。  相手ベンチが巨人の手の内を知りつくしているだけに、こういう偽装の駆け引きは効果があった。 忍者走法のテクニック  最近はめったに見られないが、野球には“隠しダマ”という愉快なプレーがある。  ボールを隠し持っていて、走者が塁を離れたとたんにタッチしてアウトにする。草野球では常とう手段で、やられた方は、口惜しさと馬鹿らしさこの上ない奇手である。最近のプロ野球で隠しダマが少なくなったのは、外野からボールが内野に返ってくると、攻める方か守る方かのどちらかがタイムをかけるようになったからだが、現役時代、私は一度だけこれをやったことがある。  どさくさにまぎれてボールを隠し持って素知らぬ顔をしようとしたが、どうしても顔がこわばる。スパイクで地ならしなどして走者の離塁を待つ時間の長さといったらなかった。胸がドキドキして、いまかいまかと一秒間が一時間にも感じられたことだった。ちょうどマージャンで国士無双をテンパイした時のようなものだ。  昔アメリカにふざけた投手がいて、二塁手の隠しダマを成功させるため、自分のグラブに細工したのがいた。グラブのまん中の皮を切って、中に白いゴムを隠しておいて、二塁手が隠しダマした時、その白いゴムを「ボールはオレが持っているよ」と見せかけて走者を騙したそうだ。  この小道具仕立ては「いくらなんでもひどい」とルール違反にとられたというが、だいたい野球とは、いかに相手をうまく騙すか、いかに自分は騙されないかで勝負を争うスポーツである。隠しダマはその代表的な例で、他のスポーツではこんな珍プレーがまかり通ることはまずありえない。走塁、盗塁も、騙し合いの一つの典型である。V9巨人のマル秘テクニックを公開しながら、走塁のセオリーをみることにする。  打者は、バットでボールを打った瞬間に走者に変身する。打たなくても走者になるケースは振り逃げの時である。この、打者がバット一振後に変身する走者のことを「打者走者」と呼んでいる。 〈打者走者は全力で走り抜けろ〉  塁と塁の間は約27メートルである。が、V9巨人では「30メートル競走のつもりで全力で走り抜ける」ことを義務づけていた。  スピードの差はあっても、30メートルを全力で走ることは誰にでも出来ることである。だから、誰にも出来る全力疾走をしなかった者には、怠慢プレーとして罰金を科していた。  平凡なゴロでも相手がエラーするかもしれない。その確率が千分の一であったとしても、千分の一でも確率があるならばそれに挑戦しなくてはいけないのだ。  ベースを駆け抜ける時、ジャンプするようにベース・タッチしてはいけない。脚が胸につくようなベース・タッチで走り抜けるのである。  一塁へのスライディングは、原則としてやってはいけない。滑り込むより駆け抜けるほうがタイム的に一秒の何分の一かロスが少ないはずである。理屈の上でロスが少ないから、その方を選ぶべきなのだ。  ただし、スライディングすることによって「審判の目をごまかしてセーフになれる」と判断した場合のみ、スライディングは許される。  要するに走者は、審判の目をごまかしてでもセーフになることに全力をつくすのである。  さて、打球が野手の頭上を越えて安打になった。この時、一塁ベースを駆け抜ける打者走者は馬鹿である。安打なら安打なりの走り方をしなければいけないのである。 〈レフト方向安打のオーバーラン〉  高田の打球がレフト方向へ行った。高田は走る勢いを止めないで半円を描きつつ一塁ベースを回って、一、二塁間の三分の一の地点まで行って止まる。  大事なのはこの次だ。止まってそのまま一塁ベースに戻るのは下の下である。高田はレフトからボールを中継するカットマンの位置を見定めて、そのカットマンと一塁ベースを結ぶ線上に出て、そのコースの上を、あたかも一塁手に覆いかぶさるようにしてベースヘ戻るのだ。  しかも、意識的に緩慢に動いて、カットマンが一塁転送の衝動にかられるように誘いながら帰るのだ。もしカットマンが転送してきたら、一塁手に覆いかぶさるようにして彼の視界を妨害しながら素早く帰塁する。相手の手数をなるべく多くし、相手の邪魔をしてミスを誘うのである。 〈センター方向安打のオーバーラン〉  オーバーランの距離を、レフト方向安打より短くとる。以下、帰塁のさいの動作と心得は前項と全く同じである。 〈ライト方向安打のオーバーラン〉  オーバーランをして止まる地点がさらに短くなるが、ライト方向へ安打が飛んだ場合に限り、走者は、右回転で帰塁しなければいけない。左回りをしたのでは一瞬ボールを持った右翼手が見えなくなるからだ。  オーバーランは、相手が打球の処理をミスした時の次の進塁の準備と、相手のミスを誘うためにやらなくてはならぬ走塁術の一つで、これがうまい選手は「いい選手」という印象を与えるから得である。巨人の高田、阪神の中村勝らがこれである。  こうして走者が一塁に出た。スタンドも両軍ベンチもにわかに活気づいてくる。一塁ベース上の一人の走者をめぐって、これからさまざまなドラマが演じられていくのである。 〈一塁走者の三つの義務〉  一塁走者は、絶対安全圏の、ベース盤上でまず第一に次のことを確認しなくてはいけない。  イニング、点差とアウトカウントである。イニングが浅ければ果敢な走塁が許されるし、後半に入っていて点差が詰っていれば慎重でなければならぬ。  アウトカウントが一死であれば思いきった走塁が許され、無死または二死ならば慎重にいかなければいけないのだ。この基本をまず確認する。  ついで相手守備陣、とくに外野手の守備位置、外野手の肩の強弱を確認しておかねばならない。これは三塁コーチの確認事項でもある。  50年5月31日の巨人対中日戦で、柴田が高田の右前打で二塁から本塁を衝いてアウトになった。あのケースでは須藤三塁コーチのストップ指示が一瞬遅かった。あの時中日の谷木外野手は定位置よりかなり前進守備を敷いていた。須藤コーチがこの谷木の守備位置を的確に見ていたならば、恐らく柴田を三塁にとどめたはずである。  これらの確認事項が第一の義務である。第二の義務は、セーフティ・リードを確認することである。これは自分の能力と相手投手のケン制の上手下手によって変わってくる。これを確認する。そしてそのセーフティ・リードの地点から捕手のサインが盗めるかどうかを調べる。サインが見えたならば、彼は一塁走者兼スパイの活動をしなければならない。どんなサインの時にどんな種類のボールが投げられたかを頭に叩き込む。その時すでにサインが解読されていたならば、サインを読んで打者に伝えるのである。  第一の確認、第二の任務を果たしながら、第三の義務の準備と行動に移るのだ。第三の義務とは、ベンチの作戦指示(サイン)の遂行である。  ベンチの作戦指示はバント、ヒット・エンド・ラン、そしてスチールの三つである。ベンチの監督からコーチを通じてサインが送られてくる。サインを見る位置は、絶対安全圏のベース盤上である。  以下、作戦指示に基づく一塁走者の理論と実際をみていこう。 〈バントはボールの落ちる角度で走る〉  バントで送られる走者は、チームにとってトラの子の走者である。一人の打者とワン・アウトを犠牲にして二塁へ送ろうというのである。走者がミスして死んだのでは、犬死以外の何ものでもない。慎重に機敏に動かねばならない。  走者はいつスタートを切るのか、これが問題である。早すぎても遅すぎてもいけない。  スタートの号砲は「バットがボールに当たって、ボールが地面に転がる角度を確認した、まさにその時」である。バットにボールが当たった時でも、ボールが地面に転がった時でもない。「ボールが地面に落ちる」と確認した時なのである。  バントするつもりでもカラ振りすることもあれば、小フライになることもある。また転がってから走ったのでは、堀内のようにうまい投手にかかると二塁で封殺される。  6月2日の巨人対中日戦で中日の大島が堀内の絶妙なフィールディングで二封された。高木守のバントは一塁線に沿うすばらしいものだった。が、走者大島のスタートが一秒の三分の一ほど遅かった。そのほんの気持ち程度のおくれを堀内は見逃さなかったのだ。あの場合は、堀内のフィールディングをほめるべきであろうが、走塁部門から見るならば、絶好のバントで二封されたのだから走者にマイナス点をつけねばならぬ。  バントの時の走塁で難しいのは、バントが小フライになった時である。相手が小フライのまま取るか、ショートバウンドにして取って併殺を狙うか判らない時である。よくあるケースでよく間違えるケースである。  正解は「一塁走者は一塁ベースに戻ってベースから離れない」である。  相手が小フライで取れば、ベースに戻っているのだから併殺されない。ショートバウンドで取って二塁へ投げられたら仕方ない、アウトである。バントした者がまずかったのだからどうしようもない。走者は「ボールが地面に転がる角度」を確認してから走るのだから間に合わなくても仕方ない。二塁—一塁の併殺になってもいたし方ない。  が、このケースでは、相手側に錯覚を起こさせることが出来るのだ。つまり、守備側はショートバウンドで取ったものの、ボールの滞空時間が長かったものだから、まず打者走者を殺して、そのあとに一塁走者を殺そうと考えがちなのだ。この場合、併殺が成立する要件は、バントを処理した投手からボールが一塁手に渡って、一塁手がまず一塁走者にタッチ、しかるのちに一塁ベースタッチしてこそ併殺になるのである。  ところが、このケースは、隠しダマと同じでどさくさまぎれである。一塁手はどさくさの中でいつものようにベースタッチしたままボールを受け、そのあとに一塁走者にタッチする逆の手順を踏みがちなのだ。が、わが一塁走者は一塁ベースにくっついている。だから打者走者だけがアウトで一塁走者はセーフなのである。ベースを離れていてタッチされれば併殺になるのである。  相手側が一塁ベースタッチした瞬間、一塁ベースは、一塁走者のものなのだ。このどさくさまぎれの相手側の錯覚を招くためにも、小フライの時はベースにくっついていなければいけないのである。 〈ヒット・エンド・ランのV9走法〉  セオリーでは、走者は顔を二塁に向けたまま二、三歩ダッシュして、それから打者を見てゴロかフライかを見分け、自分の前方の安打なら自分で判断して走り、後方の安打なら一直線に二塁に向かって走り、二塁ベース5メートル手前で三塁コーチの指示を仰ぐ——となっている。  ところがV9巨人ではここにちょっとした改良を加えていた。  V9巨人では、走者は打者を見ながらダッシュする。そして安打が自分の前方の場合は自分の判断で走るが、後方の安打の場合は、すぐ三塁コーチの指示に従うことにしてあった。V9走法というほど大げさなものではないが、顔をアチコチ向けることによって生じるミスを少しでも防ごうという細かい配慮であった。  また打者がカラ振りした時、こうしておけばスムーズに、スチール態勢に入って二塁へ突進出来るのである。 〈スチールのテクニック〉  V9巨人が近代野球を持ち込む以前、「盗塁は3Sだ」といわれていた。Sとはスタート、スピード、スライディングである。  ところが近代的なスチールはそんなものではない。スチールはただ一つ“盗みのテクニック”だけである。だいたい、投手—捕手—二塁の一連の動作は三・二秒ないし三・四秒である。それに対して塁間27メートルの走破タイムは三・六秒から三・八秒かかるのだ。どだい脚力だけでは物理的に間に合わないのだ。  日本の誇ったスプリンターの飯島秀雄(元ロッテ)が野球の走り屋として成功しなかったのは、飯島が相手のモーションを盗むテクニックを身につけられなかったからである。飯島と桑田や高田、あるいは阪急の福本と27メートルの競走をさせれば、あるいは半歩くらいの差がつくかもしれない。が、それでは投—捕—二のスピードに勝てる訳はなく、逆に足はおそくても、投手のモーションを盗みさえすれば、野村だって王だってスチールに成功するのである。  一塁走者にスチールのサインが出た。一塁走者は投手を見ている。ケン制かホームヘ投げるかを見分けているのだ。  V9巨人では各チームの投手のモーションをフィルムにとって徹底的にクセを分析した。  A左投手は顔である。走者を見ながらセットポジションに入ったらホームヘ投げる。顔をホームに向けてセットポジションに入ったらケン制である。B右投手は左足の上げ方である。角度が90度以下ならケン制だ。C右投手はヒザの曲げ方が目安である。ヒザが曲がるとケン制だ。体重を一塁方向へ移すためにヒザが曲がってしまうのだ。  D右投手は左足のカカトだ。カカトが上がるとケン制で、上がらない時はホームヘ投げる。E右投手は左肩だ。肩が上がるとケン制である……etc。  こうやって各投手の微妙なクセを知り、それを目安にモーションを盗んでスタートを切るのである。さらにクセを知っていくと、気配で判るようになる。  陸上競技出身の飯島にはこのようなクセの分析が出来なかったのだと思う。聞くところによれば一塁コーチが「ゴー」と号令をかけているのを知られて、相手の一塁手に「ゴー」といわれて走り出してアウトになったり、逆に「バック」といわれてバックしたという話も聞いた。これでは喜劇ではなくて悲劇である。アメリカでもアスレチックスの名物オーナー、フィンレーも短距離のハーブ・ワシントンをランナーに仕立てようとして失敗している。スチールを成功させるには、それ相応の盗みのテクニックを学んだ上でなければダメなのである。  さて、V9巨人では一塁走者にスチールのサインを出して、打者に「走るまで打つな」のサインを出すことがあった。打者は走者が走るとディレード・スウィング(カラ振り)して援護するのだから、走者はなるべく早いカウントで二盗しなければならない。そうでなければ打者のカウントが悪くなって、打者に迷惑がかかることになる。  ここに走者と打者のチームプレーが生まれ、そのチームプレーを守るために一層盗みのテクニックを極めていったのである。  最後に一塁走者が心得ておかねばならないことは、二塁ベース付近のゆるいゴロに対する動き方である。二塁手がゴロをとってそのまま走者にタッチして、一塁へ投げて、一人で併殺出来るケースである。  こういう時、一塁走者は「その場に立ち止まる」のである。立ち止まることによって相手に少しでも多くの手数を踏ませるのである。手数が多くなれば、どこかでミスを犯してくれるかもしれないからである。  一塁走者は、チームのトラの子である。そして同時に敵陣の中に放たれた唯一の味方である。慎重にそして大胆に動いて相手陣営をかき回す尖兵でもあるのだ。  塁上の走者は、単に本塁めがけて走ることだけが任務ではない。捕手のサインを盗み、内野守備を攪乱し、ダブルプレーのピンチを未然に防ぐなど、重要な仕事がある。また、走者の一瞬の判断によって、試合の流れがまったく変わってしまう場合がしばしばある。“好走者”が求められる所以《ゆえん》だ。  長島巨人は、走る野球をモットーに掲げてスタートした。ONという稀代の大砲二門がO砲だけになった戦力の低下を、走ることによってカバーしようとした長島監督の考え方は一〇〇パーセント正しいと思う。  残念なことは、このモットーが実際のゲームで実行されなかったことである。逆に、広島やヤクルトに走り回られて何回も苦戦して負けた記憶が新しい。足を使って走り回られることは、守る側にとっては、台所を這い回る逃げ足の早いゴキブリに寒気と腹立ちを覚えるのと同じなのである。  V9巨人の時代でもそうだった。阪急との日本シリーズで、福本を一塁に出すまいと、私たちは頭をひねくり回して、こんな対策まで考えたものだった。  福本を一塁に出してしまった時、投手はわざとケン制悪投して、決められたフェンスの位置にぶつける。そのクッションボールを二塁手が取ってセカンドベースヘ送ってタッチアウトにする——わざと二塁へ走らせて殺すトリック・チームプレーである。  私たちはこのプレーを考え出し、柴田や高田を使って後楽園球場で何度もテストした。テストでの刺殺率は一〇〇パーセントだった。実戦ではチャンスがなくてこのV9戦法は不発に終わったが、これほどまでに足と走塁技術のうまい走者には気をつかったのである。  私は、一塁走者は敵中に放たれた唯一の尖兵であり間諜であると書いたが、その度合いは、二塁走者になると、さらに強まっていく。  V9巨人は、早いイニングからバント作戦で一塁走者を二塁に進めることが多かった。ために、高校野球のようで面白くない、と叩かれたこともあった。  なぜ、悪評を買いながらもこの“石橋戦法”をとったかといえば、まず第一には一刻も早く得点したかったからだが、もうひとつ重要な狙いがあったのだ。  それは二塁走者に、相手バッテリーのサイン解読のデータを収集させるためであった。一塁走者ではブラインドになることの多い捕手の股間も、二塁からなら丸見えである。二塁走者は、そこを穴のあくほど見つめて、サインの出し方と球種とを覚えてきてベンチに報告するのである。  柴田が一回の裏、二塁走者になったあと次のようなデータを持ち帰った。 「一球目はグー、チョキ、パーと出してまっすぐだった。二球目はパー、チョキ、グーでやっぱりまっすぐだったね。三球目はグー、パー、チョキでカーブだったと思うよ」  私はこの報告をメモしておく。  ついで二回の裏に、今度は土井が二塁走者になって、観察してくる。 「グー、チョキ、パーでまっすぐ、パー、チョキ、グーでまたまっすぐ、そのあとはチョキ、パー、グーでカーブだった」  このささやかな二つのデータからでも、おおよその相手のサインが判るのである。 「キーは二つ目のシグナルにあるな。つまりチョキがまっすぐ、パーがカーブだぞ。前後は関係ない、二つ目に注目!」  ベンチの全員に、相手のサインを教えてしまう。  以後、二塁走者になったものは、この解読法によってサインを読んで打者に知らせるのである。このサインの組み合わせは千差万別。その日によっても変わっている。だから、二、三回データを収集して分析してみなくては判らない。V9巨人が早いイニングにしゃにむに走者を二塁へ送ったことの裏には、こういう007的な目的があったのである。  いくら悪評を買っても、このスパイ活動が中盤以後になってモノを言うのであるからやめられない。サイン盗みをするためにバントをやっているのだよ、とも公表する訳にもいかず、川上さんは悪評を甘んじて受けて、勝つことに全力を尽したのである。 〈二塁走者のパントマイム〉  このようにして相手のサインを解読出来るようになった。今度は、打者に、正確に、しかも相手にはサインを盗んでいることを悟らせずに知らせなければならない。  そこで二塁走者はヨネヤマ・ママコばりのパントマイムを演じることになる。  V9巨人のボディ・サインは次のようなものだった。 「ストレート」であることを伝えるサイン——各選手それぞれいつものリード・オフの姿勢(あるものは前傾、あるものは背筋をのばしたスタイル)をそのまま崩さずにリードをとっていく。リードの姿勢になんの変化もないから「ストレート」なのである。  これが「変化球」であることを伝えるサインになると——前傾姿勢でサインをのぞき込んでいたのを、背中をのばしてリードしていく。あるいは背中をのばして見ていたならば、前傾に体を倒すスタイルになってリードをとっていくのである。  リードのスタイルを変化させるから「変化球」なのである。  実に簡単なパントマイムである。相手方には決してサインを盗み、伝達をしているとは気がつかれなくて味方には判りやすい。野球の日常性の中に巧みにサインを織り込んでいたのである。  さらに、コースの内外角が判ればこれも教える。  いまみた「ストレート」と「変化球」のサインを送りつつ、顔をライト方向にチラと向ければ外角(右打者)である。反対にレフトか三塁方向に向ければ内角(同)である。  打者は、あらかじめ「ははあ、外角ストレートだな」「今度は内角へ落とす気だな」と判っていて打つのだから打ちやすい。この二塁走者と打者とのチームプレーの効果は大きく、それはONだって例外ではなかった。  が、サインを送るべき二塁走者が、なにかの事情で相手のサインが判らなかったり、まだ解読出来ていない段階の二塁走者はどうするか。そういう時、二塁走者は手を振ったり挙げてみたり、さもサインを送っているように派手に偽装サインを送るのである。王などベンチで見ていて吹き出しそうなオーバーなゼスチュアをやっていたものだ。  ひところ日本シリーズで「巨人はバックスクリーンからサインを盗んでいる」といわれたことがあるが、よその球団ではやっているかもしれないが巨人はやらなかった。その役割を二塁走者がやっているのだからバックスクリーンで望遠鏡を持つ必要はない。そのために早いイニングのバント作戦を多用していたのである。  ヤクルトが三原監督の時代に、巨人の二塁走者のスパイ活動に気がついたようだ。そこでバッテリーに乱数表を持たせて、グー、チョキ、パーではなく、指一本、二本、三本……の組み合わせによるサインに切り替えた。元巨人の荒川監督になっても乱数表を使っている。巨人はそれを完全に解読することはしなかったが、やろうと思えばやれた。データさえ集めれば、いくらでも分析出来るのである。 〈セーフティ・リードをとったらガタガタするな〉  二塁走者は、スパイ活動も大事だが、もっと大事なことはいうまでもなく無事に本塁へ生還することである。そのためには、一塁走者と同じように、安全地帯のベース盤上で外野手の守備位置、選手の肩の強弱、風向風速、アウトカウントを確認して、セーフティ・リード内にいなくてはいけない。  セーフティ・リードとは、投手が振り返りざまに投げてきてもベースに帰れてアウトにならない範囲のことである。二塁走者は、このゾーンを測って、その内側にいさえすれば、二塁手や遊撃手のケン制にビクつくことがない。  ダメな二塁走者は、この自分のゾーンを知らないがために、ちょっとした野手の動きでガタガタする。これが意外に多いのだ。巨人ではこの点をきびしく教育した。セーフティ・リードがあやふやなために殺されても困るし、ガタガタするのはみっともないし、それに相手方に利用される恐れがあるからである。  阪急との日本シリーズで、V9巨人は阪急の「セーフティ・リードのあやふやな二塁走者」を利用する作戦を用いて成功している。  走者二塁で打者は四番の長池である。一打1点だ。その1点をやりたくない。二塁走者はセーフティ・リードがあやふやな走者で、しかも長池は引っぱり専門の打者である。どうするか。  投手がセットポジションに構えている。二塁手の土井がバタバタと足音をたててベースヘ駆け込んだ。走者は「アッ、ケン制だ」と思って慌ててベースヘ戻りかける。と、この時、投手がホームヘ投げるのだ。  たとえ長池が引っぱって左前へ安打したとしても、二塁走者は逆モーションになっているから、本塁へは突入出来ないのである。  高田や柴田の肩なら、二塁走者がスタート直前に逆モーションになっていたならば、本塁へ突っ込んでも九五パーセント以上の確率でアウトになる。  打者が左の加藤の場合は、遊撃の黒江が二塁ベースに走者を引きつけて、走者を逆モーションにして本塁へ投げる。引っぱりの加藤が右前へ打っても、走者が逆モーションになってスタートがおくれている以上、エラーでもない限りまず生還はおぼつかないのである。  セーフティ・リードのあやふやな走者を引っかけ、さらに打者にこちらの狙いどおりの方向に打たせる、この二つのことがぴったり噛み合ってこそV9作戦なのである。  二塁走者がセーフティ・リードをちゃんと知っていて野手の動きに惑わされずに、投手の動きだけに注目している場合には、このプレーは通用しない。つまり二塁走者のセーフティ・リードは非常に大事だということである。  このほかに二塁走者が心得ておかねばならぬことは、自分の進行方向より前方に飛んだ打球については走者自身のジャジメントで走り、背後へ飛んだ打球は三塁コーチャーの指示に従うことである。  さきに例にひいた50年5月31日の巨人対中日戦で、二塁走者の柴田が右前打で本塁に突入してアウトになった。  あのプレーには三塁コーチャーの指示がおそかったミス、柴田が右翼手の守備位置を確認していないミスも重なっていたが、柴田は走りながら打球を追うミスも犯していた。背後の打球を見てはいけないのである。 〈走者の資質が判る三塁走者〉  さていよいよ最終ランナーの三塁走者である。三塁走者は一、二塁走者に比べて、より得点に近い走者である。したがってより失敗は許されない。  三塁走者で最も難しいことは、「内野ゴロでどう走るか」である。本塁へ突入するか、三塁ベースにとどまるか、ハムレットのように迷っていては落第である。考えているヒマはない。瞬間的に判断して突っ込むか戻るかを決めなければならぬ。いや、決めて動くというより、反射的に動かねばならない。  この最も難しい走塁で、完璧に近い走者は、私の知る限りセ・リーグではただ一人中日の中であった。  アウトカウント無死または一死で走者一、三塁に説明のケースをとろう。 投ゴロを含めたゆるい内野ゴロの時はどうするか。  ゆるいゴロで併殺にならないようなゴロの時は、本塁に突っ込んではいけない。スタートをきらないでそのまま、三塁ベースにいて様子をうかがうのである。 当たりのよい内野ゴロの時。  しゃにむに本塁へ突っ込め。相手は併殺を狙ってくる。じっとしていてはなんにもならない。打ったとたんに走り出していなくてはいけない。 ライナー、外飛はベースに戻る。  もしベースを飛び出していれば、ライナーを好捕されたら併殺だ。ライナーが抜ければ、それから走ってもゆうゆう本塁へ入れるのである。  この三点がセオリーである。  50年5月の巨人対阪神戦で、高橋一が三塁走者の中村勝にシテやられた。無死一、三塁で、次の打者が投手に当たりのよいゴロを打った。中村勝はスルスルと本塁へ全力で突っ込んできた。その時、高橋一はこの中村勝に気を奪われて併殺するのを忘れた。中村勝を三本間にはさんで挾殺プレーの末アウトにした。ところがその間に走者に二、三塁に進塁された。  高橋一は二塁—一塁の併殺で二死に出来たのに、一死二、三塁にするヘマをやってしまったが、どうしてヘマをしてしまったのかといえば、三塁走者の中村勝がセオリーどおり「強いゴロで突っ込んだ」からであった。  それより前の巨人対ヤクルト戦でこんなプレーがあった。無死一、三塁。三塁走者が福富で打者は大杉である。大杉がショートに強いゴロを打った。遊撃—二塁—一塁の併殺の間に福富が生還するケースである。  ところが、福富は立ち止まるようにして打球を追った。それから本塁へ走った。この一瞬の本塁突入の躊躇を巨人の二塁手土井に見破られた。土井は遊撃手河埜から転送されたボールを、一塁にではなく本塁へ投げて、遊撃—二塁—本塁の併殺を成立させた。この土井のファインプレーは、三塁走者の福富がセオリーを守らなかったことから生まれたのだった。 〈スクイズ走塁のタイミング〉  スクイズは、相手の意表を衝く奇襲作戦である。だから相手に気配を察せられては奇襲にならない。走者の走り出すタイミングが問題なのである。  結論からいえば、三塁走者がスタートを切る瞬間は、投手がボールから手を離した瞬間である。送りバントの場合はボールが地面に落ちる角度を確認した時であったが、スクイズの場合はスタートが先である。  が、いくら早いのがよいといっても、投手がまだボールを離していない時にスタートを切ってはいけない。スクイズを察知した投手はその瞬間にウエストボールに切り替えてきて、打者がバント出来なくなるからである。  うまい走者の中には、一球一球、投手がボールを離す時に、さもスクイズのサインが出ていて本塁に突入するようなゼスチュアをして相手を惑わしているものもいる。  スクイズ・プレーで一番いけないことは、打者でも走者でも「走者に(あるいは打者に)気配がなかったから」という理由でプレーを中断することである。サインが出ていたならば、突入してこなくても、バントする気配がなくっても、サインどおりのプレーを断行しなくてはいけないのである。  以上で走塁編は終わるが、走者とは単に足の早いだけでつとまるものでなく、もっといえば、走者とは足で走るものではなくて頭とチームプレーの精神で走るものといってよいのである。  そして野球とは、いかにして走者になるか、いかにして走者をホームに戻らせるかのスポーツなのである。 とかくファン気質とは  私のところへ電話がかかってきた。 「巨人は何をしているんじゃい。巨人が負けてばかりいるから、孫がごはんを食べない。困るじゃないか」  食事がまずいのは、お孫さんではなくて、当のご本人だと私は思うのだが、この電話をかけてきた某有名会社の会長、続けてこう私に要求した。 「お前が選手みんなを銀座へ連れて行って、飲めや歌えの大騒ぎをやれい。ツケはこちらに回してよいから」  巨人はこういう熱狂的なたくさんのファンに見守られ、応援されている。私たちは、このファンの存在を片時も忘れることがなかった。  川上さんは性来のテレ屋で恥ずかしがり屋なものだから、人前ではついつい無器用な態度をとって誤解されてきたが、ミーティングなどでは、ファンを大事にしろと教えていた。ファンの応援に、プロフェッショナルな技術とプレーでこたえよと教えていた。  ところで、この巨人のファンだが、形態的にとらえると、つぎの三つに分けられる。  ひとつは社会的に地位のある人が会を作って応援してくださる形、ふたつ目は選手個々についている親類以上のファン、三つ目がその他の一千万人といわれる一般ファンの方々である。  この最初の組織だった会には、無名会、フェニックス会、ホームランクラブ、オールドファンの会などがある。  社会的に地位のある人々の集まりが無名会とは、味なネーミングだが、無名会には、そうそうたる日本経済界の大御所が名を連ねており、会長の瀬川野村証券会長が、「みんな狂のつく巨人ファンだから、巨人が勝たないと、日本経済に多大な影響を及ぼしますぞ」といわれたのもムベなるかなである。瀬川会長ご自身も、巨人が勝った翌日などは、機嫌がよくて、負けた時保留にしていた書類にハンコを押してしまうことがあったそうだ。ある財界人は、ハワイで日米会議をやっていたが、会議の途中で座をはずしたきり帰ってこない。あまり長いので米側の出席者が「どうしたのか」と秘書に聞くと、秘書は「気分が悪くなったので別室で休んでいます」と答えた。ところが当の財界人は、別室で受話器を耳にあてて一喜一憂している。ハワイから国際電話を日本へかけ、日本シリーズのラジオ中継を聞いていたのだった。  三菱重工の河野相談役も熱心な無名会の会員で、自分より二回り下のサル年生まれの川上さん、三回り下の広岡君と一緒に写真をとって喜んでおられたが、この人は、日本経済ではなくて日本料亭に多大な影響を与えた人だ。  会議や交渉ごとのため料亭へ行くが、行った日に巨人が負けると、二度とその料亭へは行かない。逆に勝つと、いつでもその料亭を使うという徹底ぶりである。  だから料亭では「料理や作法以上に巨人の勝ち負けが気になります」と戦々恐々としていたそうだ。私たちがそれを知らないで、河野さんが行かなくなった店へ行こうものなら、目をムイて叱られるのであった。  こういう無邪気で愛すべき老ファンの集まりが無名会で、会員はだいたいが各社の会長クラスである。巨人の選手は年に一度、東京・麹町のクラブ関東に全員が会食懇談に招かれる。この会は水原監督時代からあって、その歴史はもう十六、七年になるはずである。  現会長の瀬川さんは、古くからの川上さんの親友で、瀬川さんがまだ課長のころからのおつき合いである。課長から部長、社長、さらに会長となられたが、シーズン中にもちょいちょい後楽園球場に応援にこられたし、宮崎のキャンプヘも激励にこられた。  興銀の中山素平相談役、不動産銀行の勝田会長、富士銀行の金子相談役、東電の木川田会長らも古くからの会員である。故人となられた富国生命の森会長、日興証券の湊会長も会員だった。  この無名会を「お年寄りの集まりだ」と、ご自分たちの若さを売りものにするのがフェニックス会である。社長クラスの集まりで、会社で社長から会長に昇格されたり、高齢になられると、自動的に無名会に送り込まれることになっているらしい。  私の知っている範囲では、三井物産の池田社長とさきほどの三菱重工の河野相談役がフェニックス出身である。  池田さんは、若いころ東大で野球をやっていただけに野球理論にうるさい人だが、無名会へ昇格するにあたって、「巨人の選手に野球の講義をしてはいけない」と条件をつけられたそうだ。それぞれにみなさん、なんとかかんとかいって楽しんでおられるのだ。  フェニックス会は、毎年ゴルフ大会を開いて下さっている。  このフェニックス会よりさらに年齢的に若い人の会がホームランクラブである。これは日本青年会議所の人たちが作っているもので、だいたい四十歳ぐらいまでの人が会員である。ここも、オフに親睦ゴルフ大会を開いて下さるが、青年会議所で身障者にプレゼントなどをする時は巨人の選手も一役買って、色紙などを預けている。  このほか会の形式のものでは、巨人創立以来のファンという東京・品川のお医者さんを中心とするオールドファンの会や、伊勢丹デパートの巨人ファンの会などがある。これは伊勢丹の部長以上が作っている。  こういうように、普通では口もきけない各界の絢爛《けんらん》豪華なトップクラスの人たちと親しく会話が出来るのは、巨人の選手ならではのことである。巨人のユニフォームを着ているからこそである。  その方々から、 「V9巨人は経済界や企業の模範的な存在である」  といわれたのだから、V9巨人は幸せだった。組織作り、選手の仕事一筋の姿、一つの目的に向かって猛練習して立ち向かう姿勢を、すばらしいと評価された。巨人の選手は、こういう人たちとの接触の中からマナーや言葉遣い、人生訓話などを学びとって一人前の社会人になることにつとめてきた。  マイホーム主義というのが流行語になった十年ほど前に、瀬川さんがみんなに話された。 「マイホーム主義というのは、仕事が終わったら一目散に家へ帰って皿を洗うことではない。家のことは女房にまかせて、男が外へ出てはばたけるような家庭を作ることをいうのだ。男が外で実績をあげて所得を倍増する。所得が倍増すれば家庭が潤う。そこをバックにさらに外で実績をあげる。これがマイホーム主義というものだ。巨人の選手こそ、そのお手本になってほしい」  この考え方こそV9巨人の生き方だった。家庭を大事にするが埋没しきることなく、猛練習してグラウンドで実績をあげて年俸をふやしていく。  V9巨人の生き方が経済界の指導者に裏打ちされて、首脳陣も選手たちも自覚と決意を新たにしてV9を達成したのだった。  世の中で成功した人たちと接して、社会人として一人前になる勉強が出来たことのほかに、こういう考え方の武装をもすることが出来た。その意味で、他球団には存在しないこのような各種の会の存在意義は大きかったのである。  トヨタ自動車の石田退三相談役は、巨人が名古屋に行くたびに、昼食に招いて激励をして下さった。また、毎年宮崎キャンプに松阪牛をぶら下げて慰問にこられ、その日のスキヤキパーティは、V9ナインの楽しみになっていたものである。  選手個々と親しいファンは、さまざまである。この種の贔屓《ひいき》は、巨人に限らず、どのチームの選手にもいるのだが、V9ナインもみんな持っていた。  長島と王には、どの人を例に出したらよいのか判らないくらいたくさんの応援者がいた。国籍が台湾である王には、華僑の人の大きな後援組織があり、ONは全国のどこへ行っても親類以上の人たちがいた。  黒江には、選手黒江を応援するのでなく、人間黒江を応援する人たちがいた。出身地の鹿児島にも、巨人入りする前に所属し、信者でもある立正佼成会にもいるようだ。ひところ、黒江に参院選出馬という噂が出たが、あながち笑い話ではないと思えるような、彼の将来までを考えるファンを持っている。  あまり熱心なファンがいないように思われがちな末次には、人もうらやむほどの人がいる。宮崎さんというスーパーマーケットを経営している人で、毎日のように末次を球場まで連れてきて、試合の終わるころを見はからって迎えにきていた。オフになれば、自分は違うゴルフ場へ行くのに、わざわざ遠回りして、末次をまずゴルフ場へ運んで行って、それから100キロぐらい離れている自分のゴルフ場へ行くのだ。並みたいていの面倒見ではない。  柴田には、割烹「治兵衛」の主人だ。身重の柴田夫人を宮崎へ連れてきたり、柴田の飛行機旅行の羽田送迎は、必ずこの人である。  土井には三九運輸の社長が親がわりみたいになっているし、福田コーチには前川という先輩が北海道にいて、巨人の二軍が北海道へ遠征すれば必ず面倒をみてくれ、困っていると聞けば興行まで打ってくれている。  そのほか誰彼なしに一人や二人の親子か兄弟みたいなファンがいる。損得抜きのファンである。V9巨人の一員として、一筋に目的に向かって己れを鞭打つ姿に惚れ込んでゆくのであろう。  さて、こういう会形態のチーム全体のファンと、各個人の特定の贔屓のほかに、絶対多数のファンが一般のファンである。このファンの方々が、V9巨人を支えてくれていたのである。  49年の10月14日、長島引退の日だ。予定していた日曜日の13日が雨で流れた。一日延びてウイークデーのデイゲームである。客足がのびないのではないかと心配だった。  ところが、当日は札止めの盛況でファンがあふれた。川上さんも私たちも、あの光景にはびっくりし、喜んだ。長島の人気の力だが、その人気は、彼がファンのために一生懸命プレーを続けてきたことによって作られたのだ。いい加減な選手生活を送っていては、あの劇的な最後の日はなかったと思う。  V9巨人は、一心不乱に野球に取り組み、その成果をファンとともに分かち合ったことによって、愛され支持されてきたのである。が、その生態は多分にゲリラ的である。  巨人がぶざまに負けた夜、川上さんの家にはジャンジャン、私の家にもジャンくらい電話がかかってくる。長島監督の家の電話も大変だったことだろう。  夜中にかけてきて——。 「××選手を使ったから負けたのだ、あれを使ってはいかん」「柴田一番より高田一番の方がいいんだ」「ピッチャーのローテイション作りが間違っている」「なぜ×回にバントしたんだ、ヒット・エンド・ランをかけていれば勝てたんだ」  一億総評論家とはよくいったものだ。熱心なファンはみな能弁で理論家である。負けた結果でいうのだから、いちいちごもっともである。が、こちらはもう反省と点検を終わってクタクタ、マブタが半分以上くっついている。  丁寧に聞いて答える訳にも、といって、口惜しさの原因を作ったのはこちらなのだから、全く聞かぬ訳にもいかなくて閉口このうえなかった。  なかにはバーらしきところから、 「いま××選手が一パイやっているがいいのか? あしたゲームに出るのだろ、帰るようにオレがいってやろうか」  と、有難い情報とご注進。仕方がないから、「そういうあなたもあしたは仕事があるんじゃないですか」といってお引き取り願うが、よく気のつくファンである。  遠征先の旅館へもかかってくる。いちいち取りついでいては休養出来ないから、交換台で姓名を聞いて本人に確認してから取りつぐが、そうすると家族や、どういう訳か母親をかたったりする知能犯がいる。姉だ妹だでは疑われるから母親になりすますのだろうが、そんな時はどんな声を出してるのだろう。  家への電話をご辞退申し上げるため、巨人の選手は番号を電話帳に登録しないように手配したり、年に二、三回番号を変更して対策をたてている。  手紙も多い。怨みごとやアドバイスを便箋に三十枚も書いてきて不足料金を取られたりした。選手には花模様のついたファンレターだが、私たちにはメカタのある奴だ。  さてグラウンドのファンである。巨人には圧倒的なファンが押しかけるが、アメリカに比べておとなしい。ジョンソンがさっぱり打てない時、「ブーブーと非難されているのかと耳を澄ましてみたが、ブーブーとは聞こえなかった」といっていたが、日本語が判らないことをさし引いても、日本のファンは寛大である。アメリカであったら球場の半分ぐらいの人が靴でコンクリートを踏みならし、ブーブーと声を出し、スタンドの最前列から身をのり出して、腕を突き上げて口汚く罵るところだ。  球場へ行ったらもっと思いきってヤジったほうがいい。私たちはヤジを一向に気にしなかった。「牧野の大バカヤロー」とヤジられても、大声を出してその人のストレスが解消されるなら、それだけでプロ野球の存在意義があると思っているから腹が立たない。  49年4月、後楽園球場の対中日戦でのストリーカー騒ぎ、あれも熱狂の現われだろう。私は渡米中に二、三度見たが、観客も慣れたもので、結構楽しんでいた。  千円もの入場料を払っているのだし、ゲームが面白くなかったらヤジって騒げばいい。会社で上役に腹を立てていたならば、グラウンドにいるわれわれを憎い上役だと思って怒鳴ればよいと思う。  だから、どんなヤジでも、耳には入るが気にしない。むしろこっぴどくヤジられることで進歩する面もあるのである。  セ・リーグのある球場で、いつも同じ場所から同じ声で、同じような汚いヤジを飛ばしているアンチ巨人のファンがいるが、ある試合で、バッタリとその声が聞こえなかった。さあ、そうなると気になる。 「あいつ病気になったんじゃないか」  と選手たちが心配するのである。いつも決して目を向けない憎っくき奴のいたあたりを、その日ばかりは、懐かしいような気になって見渡すのである。  広島、中日のヤジはきつかった。広島弁と名古屋弁独特なイントネーションでからみつくようなヤジである。私は四国生れの名古屋育ちだ。「川上は能なしじゃけんのう」とか「とろくせえことやるでにゃあか」などといわれると小憎らしさがピンピンと胸にくる。が、関東育ちの人は、こういう地方弁がのどかで面白く響くらしくて平気な顔をしている。  だから、ヤジのコーチをするなら、 「その選手の出身地弁でヤジると効果がある」  ということになりそうだ。  甲子園のアンチ巨人ファンは、阪神が勝っている時は一塁側で阪神声援に忙しいが、負けてくると三塁側へ移動してきて、ベンチのすぐ後ろへ陣取って強烈にぶちかましてくる。あそこはベンチがむき出しになっているから実によく聞こえる。が、V9巨人はそれが聞こえ出すと元気になった。かえってファイトが燃えてくるのだった。  とくに長島は、若いころスランプになると、「誰かゴシップを飛ばしてくれないかな」といったほど外部の声に反発して打つ気質の男だ。阪神ファンのどぎついヤジに燃えたものである。  巨人はいつもたくさんのファンの目にさらされ、テレビ、ラジオで全国に流され、多くの新聞記者たちにツケ狙われていた。こういう衆人環視の中でいつも戦ったこと、これがV9の秘密の一つであったことは、間違いないところである。 スーパースターの条件  川上さんや王は、とにかく無差別にたくさん食べる。王など食べながら「さあ今夜は何を食べようかな」と次の食事の心配をしているのだから驚異である。私など、腹が減っている時にしか食事のことは頭に浮かばない。  川上さんとゴルフに行って昼食をとると、まずカレーを食べる。ついで親子丼を食べて、ソバで仕上げる。夜分に打合せでもやるときは、まず夕食だ。たらふく飲み、かつ食べながら、帰りには「ちょっとスシをつまもうか」と三十個くらいペロリと平らげる。私など、せいいっぱいつき合っても、スシ屋の門口までくるのがやっとだ。  十年ほど前、川崎球場で弁当中毒の事故があった。半分食べた選手でも下痢をしたのに全部食べた川上さんただ一人なんともなかった。キャンプでも多摩川の練習でも、時計なしで正確に正午にはベンチに帰ってきた。腹時計だ。  川上さんも王も好物は中華料理だ。私はかねがね、中華料理が好きなのは、量が多いからではないかと思っている。胃の中にも歯があるのだろうと思う。  長島監督は、いろんなものを少しずつ数多く食べるのが好きで、宮崎の宿舎では、気をきかして小鉢の多い料理を出したそうだ。  ロッテの金田監督も大食で、うまいものをたくさん食べるために働いているような美食家である。  とにかく胃腸が弱かったり偏食のある選手は大成しない。胃腸が強いということは名選手の必要条件のような感じがする。これはある程度、一般社会でも同じではないかと思う。よくいうではないか、「学生時代は頭、卒業したら胃で勝負」と。  激烈な戦いの最後のキメ手は健康な体力、つまり胃腸の強弱による。事実、スーパースターはみな「大食漢」なのである。  ところで、先ごろ、ある四十代の知人に会ったら、彼はこんな賭けをして、いつも勝っているという。彼の賭けは、 「キミはちゃんとした懸垂を一回やれるか」  というものだ。ちゃんとしたというのは、鉄棒にぶらさがって、アゴまで持ち上げるということである。賭けを挑まれた方もむろん四十代の男である。挑まれた方はきまって、 「そんな年寄り扱いするなよ。懸垂の一回や二回出来なくてどうする」  と受けて立つそうである。ゴルフをやっているのだし、四十代とはいえまだ若いと思っているからだ。  ところが、いざやってみると、出来ない。どんなに力んでみてもアゴまで上がらない。「こんなはずではない!」と何回も試みるうちに、体力を消耗してますます上がらなくなる。賭けは百発百中、彼の勝ちだそうである。  私はいま四十七歳だが、この話を聞いてやってみたら、なんと、簡単に出来た。選手たちと一緒に多少とも体を動かしていたからだろうが、オレはまだ若い、と気分がよくなったものである。  そこで、ここでは、私が折りにふれ、若い選手に教えている「野球選手の体力と健康」について触れてみたい。  現代は、一般社会もプロ野球も、走るのが流行だ。戦前は「歩け、歩け」の歌まであったように歩くのがブームだった。歩くことによって健康になるが、あれは戦争に協力するための“国策”であった。  走るブームのきっかけは、私はゴルフの尾崎将司の彗星のような出現にあったと思う。ご存じのように尾崎はプロ野球の西鉄ライオンズの投手だった。ゴルフに転向してジャンボ・ショットを放ち、四日間のトーナメントで疲れを知らない尾崎をみて人々は「きっと野球のトレーニングで基礎体力を鍛えてあるからだ」と思った。  事実そうだった。ほとんど基礎体力造りをしないゴルファーの中に入れば、高校—プロ野球を通じて野球のトレーニングをしてきた尾崎の体力が抜群なことは当然である。  スポーツのトレーニングの中で、ボクシングの減量を含むトレーニングは一番きついと思うが、スキー、バレー、水泳などに比べて、野球のトレーニングは最もハードで、ポピュラーである。それだけに研究もされ組織立ってなされている。  巨人では東京オリンピックの翌年の40年から専門のトレーニングコーチをつけた。東京大会の十種競技代表の鈴木章介コーチである。これに続いて各チームが続々とトレーニング専任のコーチを置いた。阪神は吉田監督が、中川という高校の体育教諭をコーチに迎えて、蔵前の相撲場からきたような“デブッチョ退治”に乗り出したが、これなど遅きに失している。  ヤクルトの荒川監督に聞いたことだが、同球団の赤坂ランニングコーチは、陸上競技の概念を離れて野球選手としての走り方を研究し、選手一人びとりの体力に合わせたトレーニング法を編み出しているという。荒川監督は「そのおかげで選手の体力が増進し故障もしなかった。だから去年はAクラスになれたのだよ」と評価しているくらいだ。  こんなにトレーニング部門が充実しているスポーツはほかになく、尾崎の出現以後、続々とゴルファーが野球のトレーニングを取り入れている。  たとえば数年前から、柴田、土井、末次が自主トレする鹿野山の山ごもりに青木、鷹巣、金井のゴルファーが加わっているし、安田がロッテの練習に参加し、三人の女子ゴルファーが大洋の練習に顔を出したりしている。  このような下地のあったところへ、今度は、ロッテ金田監督の“走れ走れキャンプ”が出現し、成功して日本一になってしまったものだから、走ることを基本にした猛練習が他チームに広まった。  こういうプロ野球の傾向と並行して“走り方”の本が書かれ、一般社会にも走るブームが定着した。  都会では自動車が人間の歩く回数を減らし、田舎では農耕機械が発達して、麦踏み、稲刈りが機械化されたため、基礎体力の養成が日常生活の中で行なわれる機会が少なくなった。  だから鹿児島出身の定岡でさえ球界ではモヤシっ子みたいにみえてくる。昔は少年のころ櫓をこいで足腰の強くなった稲尾とか、家業の手伝いでリヤカーをひいた中西、力仕事をしていた野村らがいたものだが、いまでは非常に稀である。  巨人をやめてから、私は招かれて正月の皇居一周のマラソン大会にゲストとして出場したことがある。一周5・3キロ。「よし、ひとつ優勝してやるか」と勇んで出場したが、完走がやっとの23分台だった。五十、六十歳のお年寄りにかなわなかった。一等が五十八歳の人で19分台。二、三等とも六十代でこちらも19分台だった。  この人たちは毎日走っていて、唯一最大の健康維持法だそうだ。一人、二人とやっているうちに、同好の士が増えたのだというが、みなさん健康そのもので、走ることがいかに健康によいかという生きたお手本になっている。  懸垂で自信を持った私だったが、ここでは面目丸つぶれであった。私はまだ懸垂がやれたからよかった。  さて、自主トレ、キャンプ、またシーズン中と組織的にトレーニングをつむ選手だが、アメリカの選手に比べるとその体力、パワーはまるっきり落ちる一方だ。が、これは単に比較してもはじまらない。どだい日本犬とシェパードのようなもので、人間の種類が違うのだから。  パワーの差はつきつめていうと握力の差である。これはものすごく違う。日本選手の平均握力が60とするならアメリカ人は80だ。このグリップの力の差がパワーの差となってあらわれる。  アメリカ人は、いわばポパイである。あのマンガの特徴は、腕にある。ホウレンソウを食べると腕がムクムクと太くなる。とくにヒジから手首までの腕である。ここを鍛え、手首を鍛えてあるうえに強い握力があるから、速いタマが投げられ、鋭いスウィングも生まれるのだ。  このあたりが日本人と根本的に違う。日本人は先天的に下半身が強いから、腰の回転を利用してパワーを生み出そうとする。逆にアメリカ人は、下半身の弱さをカバーするために腕から先を鍛えるというわけだ。  そのアメリカ人が、下半身をも日本人のように鍛えたなら、よりすごいではないか、と思われる。だが、これに対する彼らの返事は、 「それは無駄なことだ。野球はオーバーフェンスさえすれば、ギリギリだろうが場外へ飛び出そうが1点である。もし380フィートなら2点、400フィートなら3点とかいうのであれば、話は別だがね」  パワーも考え方も、いささか日本人とは違うみたいである。合理主義というものであろうか。  ところで、私は現役時代、その当時、日本医科歯科大学の先生だった知人の三木成夫助教授から面白い話を聞いた。脳の専門の先生である。その話を巨人へきてからミーティングで選手に話したことがある。  面白いからそのミーティングの再現をしてみよう。外題は二つある。一つは呼吸に関するもの、二つ目は「迷路《めいじ》反応」なるものについてだが、まず呼吸について。  街角で急に自分の前に人が飛び出してきた。ハッと身構える。また、女の人が針に糸を通そうとする時、呼吸はどうなるか。こういう時、人間は必ず息を止める。しかも吸い込んだまま止めている。あることに集中すると知らず知らず息を止めているのである。  三木先生はこの人間の自然な習性を「人間は十の息を吸って二分吐いて息を止めたあとの1・5秒から2秒の間が、最も神経を集中出来る時である」と理論化する。 「その間だけは脳の電気が全部ついているんだな。それが3秒、4秒とたつうちにだんだんと消えていくんだ。だから投手は打者の電気がついている時をはずして投げれば打たれないよ」  この集中の瞬間をはずすことを「間をはずす」というのだそうだ。“八時半の男”といわれたころの宮田はセットポジションの時間をものすごく長くとった。彼は今にして思えば打者の脳の中の電気が消える時を待っていたのかもしれない。  いや、実際に投手はセットポジションで肩が動くとボークをとられるから、宮田は肩を動かさないで息をする練習をしていたらしい。  これとは逆に、フーッと息を吐いている時は一種の軽い“めまい状態”であるという。  これは、また聞きの話だが、将棋で升田と大山が対局していた。升田はどう手を読んでも自分が負けていた。タバコを吸ってはフーッと盤面に吹きかけた。煙が盤面をクッションに大山の顔にかかった。大山がよけて、フーッと息を吐いた。  と、その瞬間、升田がバーンと駒を打ち込んだ。この一瞬で大山の精神統一がもろくも崩れ去り、ついに升田が逆転勝ちしたのだという。多分、つくり話だろうが、呼吸とはそれほど微妙なものなのだろう。 「相手を脅かすには、相手が息を吐いた瞬間に怒鳴れば一発だよ。いわゆる虚を衝くというヤツだ」  と、三木先生はおっしゃった。  投手と打者の駆け引きに、この呼吸を利用しない手はない。  以上が呼吸についてである。次に、迷路反応である。  迷路とは、普通、内耳のことをいうらしい。迷路反応とは最近になって発見されたものだが、三木先生はこんなたとえで話をした。 「目の前を毎時100キロのスピードで通りすぎる車を追うのに、顔を動かしてでは追いきれないし、目を戻した時、焦点が定まらない。ところが、目だけで追えば追いきれるし元に戻しても焦点がぼやけない」  そういえば、川上さんは若いころ急行列車に乗って、通りすぎる駅名を読む練習をしたという。スピードボールのタマ筋が見えるように目を鍛えたのだというが、やはり「顔を動かしては読めなかった。目だけで追って読んだ」といっている。  またベーブ・ルースは、まわっているレコード盤の曲名を目だけで追って読む練習をつみ、実際、読めたと伝えられている。  東西の大打者に期せずして同じようなエピソードがあるのは面白い。  キャッチャーが打者のカラ振りしたボールをとれるのは、やはり顔を動かしていないからだし、ショートが走者と交錯してもゴロがとれるのも顔を動かさないからだ。顔を動かさないということは、医学的にいうと「内耳を動揺させない」ということなのだ。  このような反応の原理を、お能が巧みに応用している。能面は、アゴが上がったら前が見えないように作ってある。アゴが上がっても見えるのはお神楽の面だけだ。だから能の先生はアゴが上がると「お神楽やってんじゃないよ」と叱るそうである。アゴを動かさないためには耳を動かさなければいい。  以上が、私のやったことのある“医学的ミーティング”の内容である。ところでこの三木先生、脳を解剖しては学生に講義して腰が痛くなると、急いでハリを打ちに行く。「手術は西洋、治療は東洋じゃよ」というのが口グセであった。  なるほど、王もヒザの治療で、よくハリに通っていたものだ。 人間・川上哲治の素顔  私が、人生、などといっては口はばったいかもしれないが、誰の人生にも逆境の時があるのである。そして人間は「その逆境を生き抜いてこそ成長していく」ものなのだ。  これは私がいっているのではない、川上さんが再三、私たちや長島監督たちに説いた、いわば、V9の精神的バックボーンなのである。  川上さんの逆境は子供のころであった。家が貧しくて、満足に米のごはんが食べられなかったという。だから、たまたまごはんが腐ったような時、その納豆のように糸のひくごはんを川へ持って行って、せせらぎで何度もすすいで糸をなくして、それにお茶をかけてタクアンで食べたこともあったそうだ。  熊本工業へも人の力を借りて入学し、ある時は学校の用務員さんの部屋に寝とまりし、自殺を決意したことさえあったらしい。 「とにかく私は本当に最低の生活を生き抜いてきた、だから強い。そこいらの人に負ける訳がない」  川上さんは貧困だった時代の体験を強烈なエネルギーにして、苦境を乗りこえてやってこられた。苦悩する長島監督を見ていて、私はこんな人間・川上を思い起こすのである。 「オレは最低の生活を生き抜いた、だから強い」という信念は、「依怙地に一つのことに集中的に邁進《まいしん》する性格」となって現われている。悪くいえば偏執的、よくいえば何ものにも屈しない不動心ということになるであろうか。  川上さんが監督になられてからの数年間は、マスコミとの対決の時代だった。“哲のカーテン”などという表現でキャンプの秘密主義を責められ、シーズンになると“高校野球だ”“貧乏人野球だ”と罵られた。  最初のうちは、新聞や雑誌をいちいち読んでいて、かなり気分を悪くして、私たちにも「なぜこんなことを書くんだ」と八ッ当たりしたことがあったが、そのうちに全く気にしているふうがなくなった。 「監督はどうなっちゃったのだろう」  と怪訝《けげん》に思って聞いてみると、 「報知新聞と読売新聞以外は、いっさい読まないことにしたんだ。悪口を書くものは無視しちゃえばいいんだ」  まかり間違っても悪口を書かない巨人の傍系紙だけを読んで、いつもニコニコしているのであった。だから試合前のベンチなどで、悪口を書いた記者が川上さんが読んで怒っているだろうとコソコソと身を縮ませているのに、川上さんは、 「よお、××くん!」  とご機嫌で呼びかけて、当の悪口記者をドキリとさせたことも間々あった。  自分の信念に反するものを無視していたのだが、V5を達成したあたりのミーティングで、川上さんはこんなことをいったことがある。 「私がさんざん悪口を書かれたのは自分がマイた種だった。私は現役時代、試合前にフラッシュをたいて写真をとられると目が悪くなるので全部断わった。打撃のことを考えている時に話しかけられては邪魔なので無視して、野球一筋にすごしてきた。こういう私は、取材する側からすれば憎いだろう。そういう目にあって私を憎んでいる人たちがデスクになっているのだから、新聞に悪口が多くなるのは当然かもしれない。天にツバした自分を反省している」  しみじみといって、 「だからキミたちは出来るだけ取材に協力しなさい。ただし、マスコミというものはいくら親しくつき合っても、悪口を書く時は書くものなのだ。それを怒ってははじまらない。向こうも商売なのだから」  と選手全員にいったものである。何連覇かを達成したゆとりというのか、悟りを開いたというか、一徹なガンコさが幾分か柔らかくなった。  この教えのせいで、現役時代の長島監督や王ら、選手たちのマスコミに対する態度がまことによくて、そのためか長島監督はいまあまりマスコミから非難を浴びていない。  川上さんのこの変身は、どうやら息子さんの侑吾郎君と関係がありそうである。息子さんと同じ年頃の選手が、入団してきたり、報道陣の中に出てきてからである。 「よく考えてみれば、あの連中はうちのセガレと同じ年なんだなあ」  と、感慨深げにもらして気弱な笑いを浮かべたことだった。  それから三、四年たったV9の年、48年には、川上さんは今度は一人娘の雅子さんによって心を千々に乱されたことがある。  ある夏の日、後楽園球場のロッカールームの中の監督室でボケーッとしている。あの練習好きの人が練習を見にも出てこない。  私が気になって、 「どうしたんですか」と訊くと、目をギョロッとむいて、 「見合いだ」と吐き捨てるようにいう。 「それは結構で」と私が応じると、ブツブツと口の中で、 「気に食わん。なにが結構だ」  といって不貞腐《ふてくさ》れている。  どうしようもないから放っておくと、しばらくしてから急にハッスルしだしている。ノックしてみたり自分で打席に立ったりして張り切っている。「どうしたんです?」と訊いてみると、喜々として、 「話がこわれた、ウフフ」  と喜んでいるのである。こんな繰り返しが何回かあって、またふさぎ込んだ。 「いよいよ今度はダメだ……」  とウツロな目でふさいでいる。近く仲人に決まった水田三喜男氏(元蔵相)と一緒に相手の家へ行くことになったという。  そして相手の家へ行ってきたという翌日、得意満面でこういった。 「向こうの家へ行ってヘベレケに酔っぱらって、さんざんクダまいてきた。これで話がこわれるぞ」  ところがこの川上さん一世一代の演技が「飾り気のないお父さん」ということでかえって気に入られて話がまとまった。「野球のようにうまくはいかん」と頭を抱えていたものだ。  いまだからいうが、実際、V9の試合の中には、父親川上さんがウツロな心理状態で指揮したものがいくつかあった。  雅子さんはV9達成のあと結婚したが、この新婚旅行も大変だった。川上さんが、 「オレも一緒に行く」  といい出した。「いくらなんでもそんなバカなことを、やめなさい」とさとしたが、結局、みごとに一緒にハワイに行ったのだから川上さんの執念はスゴイ。新婚旅行の日程に合わせて、V9祝賀のハワイ・ゴルフツアーを組んで、ハワイで一緒になったのだ。  しかもハワイで川上さんは若夫婦に厳命した。 「毎朝八時に私のホテルヘきなさい。朝食も一緒に食べることにしたから」  朝食を食べながら「これからの人生の生き方を教えてやった」というのだからあきれる。私にも娘がいて秋に結婚するから、その気持ちはよく判るが、いくら親だといっても、ちょっとばかり押しつけがましい。が、そのへんがいかにも川上さんらしいところだ。  それから一年近くたった49年の秋、私は川上さんに誘われて釣りに出かけた。聞けば、娘さんの出産予定日だそうだ。  網代《あじろ》でイカ釣りをしていると、エサのイカに大きな歯形がついた。見るとタイの歯だ。そこで急いでタイ釣りのエサに代えて釣っていると、どうだ、二人のサオに40センチもある大きなタイが一匹ずつかかったではないか。 「こいつは縁起がいいぞ」と喜んでいるところへ連絡があって、「男の子が生まれました」——。  ご存じのように49年に巨人は、ついにV10を達成出来ずに敗れ去った。が、その代りにといっては語弊があるが、初めてのお孫さんを手に入れたのだった。  いま、釣りの話が出たが、釣りは川上さんが最近になって熱中した趣味の一つである。私や藤田コーチが、宮崎のキャンプなどで釣りに行くと、川上さんは、 「太平洋にサオ一本垂らしたって魚がかかるもんかい、やめとけ、やめとけ」  と、太平洋にサオ一本の非合理性を笑ってゴルフに明け暮れていた。たまにゴルフの相棒がいないような時について来たが、無茶苦茶にサオをかき回したりするから釣れる訳がなかった。  ところが、三年ほど前に、私たちの釣り仲間に、釣りキチの山内コーチが加わり、さらに中村稔コーチ、務台グラウンドキーパーも一緒になって宮崎キャンプに釣りブームが巻き起こった。川上さんはこういう動きに、なんとなく仲間はずれになったような気になってか、ある日一緒に青島の先の大島へ行った。  ここで間違いが起こった。いままで一匹もかからなかった川上さんのサオに、この日に限りたくさんかかってしまったのだ。この大釣果で、いっぺんに巨人一の釣りキチガイになった。やり出すと凝《こ》るのがこの人の特質だ。  まず釣りの技術書を何冊も買ってきて、家でも遠征の汽車の中でも片時も離さずに読破して、はるか先人の私たちに講釈するようになり、町工場へ出かけて行って自分でマキエのカゴを作る凝りようだ。  もちろん時間さえあれば「牧野、連れて行け」とうるさい。磯釣りでも舟釣りでも何でもこいである。北海道へ遠征すれば移動日に白石さんを連れて小樽から舟で出て行ってタイを釣り、北陸へ行けば東尋坊の先やここかしこ、東京にいれば網代、初島、下田の先へ。  ある夏の夜、ナイターが終わって私と山内コーチと三人で、午前三時に出発した。山内コーチが湘南の釣りグループと話をつけてボートと船外機を用意してあった。それを三人で暗闇の中で取りつけ、エンジンをかけたが、音はすれども舟が進まない。調べてみるとスクリューがこわれていた。あきらめて酒でも飲んで帰ろうとすると、 「店を叩き起こして船外機を買ってこい」  と川上さんの命令が下るのだ。  日本テレビの11PMで釣りの写真をとるというのでグアムからロタ島へ渡った。ロタ島へはセスナ機で渡るしかない。だだっ広くひろがる南太平洋の上をプロペラ機でカタカタと飛ぶのである。しかもチャーター機で、乗るのは操縦士と私たち二人だけだ。川上さんは大の飛行機ぎらいであるから、私が「どうします?」と訊いてみた。すると川上さんは何をいうかという顔で、 「釣りのためなら凧《たこ》にだって乗るさ」  といったものである。  野球と同じように、やりだしたらとことんやらなくては気がすまない。凝りに凝って、とどまるところを知らない貪欲《どんよく》さである。  釣りに凝る前は、石に凝っていた。これも私の影響だったと思う。V9時代の始まる前である。私が石を磨いているのを、最初に藤田コーチが真似しはじめた。  二人で石の話をしていたり、遠征先で石を磨いているのを、川上さんはモノ珍しそうにチョロチョロ見ていたが、そのうちに「オレも組に入れろ」といってきた。  そこで石の磨き方を教え、石と三百番、五百番、六百番の各種の水ペーパーなど用意を整えてあげると、さあ、熱中した。朝起きてすぐに磨きはじめ、球場に出かけるまで磨きっぱなし。ゲームが終わって帰ってから寝るまでまた磨く。  磨く前に、石の形を作るために電動グラインダーで切る必要がある。川上さんは遠征先でヒマな時間が多いから、その間に石を磨きたい。そこで遠征にも、七、八キロもある電動グラインダーをウンウンいいながら運んで行く熱の入れようである。  北海道へ行けば神居《カムイ》コタン、ポンピラ、名古屋では岐阜の菊花石、くじゃく石、佐渡の赤玉。さらに四国の蛇紋石、馬蹄石など、ありとあらゆる石を集める。 「沼田に行けばいい石があるというじゃないか」  と聞いてきて、私と行ったことがある。朝四時に起きて出かけて、車のトランクに大きな沼田五色をたくさん積んで帰ったこともあり、数年間は、石といえば目の色が変わった。目の色を変えて集めた石を、ひねもす磨く。磨きながら、 「なかなかきれいにならんわ。石も選手も同じだわい」  などとブツブツいっている。  私のあげた佐渡の赤玉に似ているツブツブのある石を、どう気に入られたのか徹底的に磨いた。この石はいくら磨いてもツブツブがなくならないのだが、それをなくそうと磨きに磨いて、川上さんの指は四六時中ふやけて、しまいには十本の指の指紋がなくなってしまった。  いまでも川上家の応接間にはピカピカなこの石が大事そうに飾ってある。それともう一つ「グラブ」と名付けた、よく見れば野球のグラブに見えなくもない奇岩(?)が飾ってある。これはある石磨きのコンクールで入賞した逸品なんだそうである。  私の石や釣りは、単なる趣味でしかないが、それが一たん川上さんの手になると、深遠な哲学と芸術に高まるのだから不思議である。  いま思えば、石に凝ったころは、自分の巨人軍を作り上げるうえで内外ともに多難な時で、あたかも水ペーパーで硬い石を磨くような根気のいる時期だった。  また釣りに凝ったころは、密かに引退の時を手探りしていた時期だった。そして息子さんや娘さんの成長につれて揺れ動いた気持ちは、一世の独裁監督が老境に入る時期でもあった。  そのいずれも、川上さんの人生のそれぞれの岐路であった。岐路にさしかかった時、川上さんは野球以外の何かに心を仮託して、ある時はまぎらわし、ある時は感情の赴くままに熱中することによって、それを乗りきった。  その岐路は、少年の頃に体験した貧困という逆境に比べていささかも平坦なものではなかったと私は思っている。  さてマスコミは、川上野球だとか長島野球だとか書く。が、野球はおんなじなのだ。もし巨人にナントカ野球があるとするなら、それは巨人野球なのであって、その本質は、長い伝統に培《つちか》われ、ここ十数年で川上さんが敷設した「猛練習で強くなる巨人野球」以外の何ものでもない。  いま、私は人間・川上の一面を紹介したが、つぎは、巨人野球を完成した川上さんの管理者としての側面をみてみたい。  川上さんの後をうけた長島監督も「猛練習」をしているから、この言葉や、いまやアメリカの大リーグに逆上陸している「トックン」という言葉は川上さんの独占物ではなくなったが、すでに折りにふれて紹介しているように、まさに筆舌ではいいつくせないものすごさであった。人間川上の偏執的ともみえる凝り性がこの面にも出ているのであって、監督に就任してからの数年間は「練習」という言葉以外の言葉を忘れてしまった感さえした。  夜汽車の徹夜で帰ってこようが、雨が降ろうが、猛暑であろうが、オウムのように「練習だ」の一点ばり。  36年の南海との日本シリーズの間の練習は豪雨の中であった。豪雨で試合が中止になった。いくらなんでもこれでは練習出来ない、と巨人のみんなが思った。が、たった一人川上さんだけは「やる」という。監督の命令は絶対的だ。  私たちコーチはバッティング・ゲージにテントを張って火をおこした。火は、暖をとるためではない。ドラムカンにおこした火の上にトタンをおき、グシャグシャに濡れたボールを乾かすためだ。乾かしたボールに石灰をまぶして使うのだ。  この豪雨とドロの中に川上さんが立ち尽しているから、練習をやめたくてもやめられない。  こうやって36年、川上さんは監督一年目で日本シリーズに勝った。川上さんは、 「猛練習によって腕を磨き、闘争心と信念と厳しさを養った」  といっておられた。が、私はいささか違った見方をしている。川上さんのいわれるような狙いと効果ももちろんあったが、私は、川上さんは猛練習によってチームを統率した、と思っている。  新監督がまず最初に心掛けることは、なにをおいてもチームの統率だ。そのためにはさまざまな方法があるだろう。  ヤクルトの三禁主義のような禁止事項で縛る方法、ずっと以前に東映で大下さんがやった三無主義、三原さんが近鉄でやった野球の勉強などいろいろだ。いずれも、チームを強くするためと同じ比重で、チームを一つにまとめることが狙いである。  川上さんは、この方法として猛練習を採り入れたのだった。「練習だ」という命令を下して全員に従わさせる。命令を徹底させることによってチームを統率し、365日命令を下しながら不平不満分子をチェックし、シーズンオフに不満分子をトレードで切り捨てて、一枚岩の巨人軍を作り上げたのだ。  水原前監督からバトンを受けた川上さんの初期の巨人は、玉石混交であった。この石を選り分け取り除く方法が「猛練習」だったのだと私は思う。  その意味で、長島監督の猛練習とは、ちょっとばかり内容が違っている。いまの巨人には石、つまり長島監督に歯向かう者はいないだろう。純粋に技術を磨くための練習である。  川上さんの初期の猛練習の先頭に立ったのが、鬼軍曹といわれた別所さんである。私などは、シーズン途中に入った外様で、現役時代の実績もない。その点、別所さんは、巨人ハエ抜きではないとしても巨人時代に赫々《かくかく》とした実績もあり、声も体も大きい。ダンプカーみたいに猛練習を引っぱって行った。  川上さんはこの別所さんと相談して方針を立てていた。そこへ中尾さんと私が加わって四人でミーティングを開くようになった。  この四人のミーティングは、口角アワをとばして、という表現どおりの熱気であった。別所さんは声が大きくて強硬、中尾さんも見かけは温厚な人だが、しっかりした自説を持っていて納得出来ないとテコでも動かない強い人である。私はその両巨頭にはさまってオロオロしてばかりはいられないので、必死になって「マアマア」とやりながら、とかく精神至上主義や根性論に走りがちなところを理屈と合理性で修正するのに大童《おおわらわ》であった。  この三人のやりとりを、川上さんは知らん顔をして聞いていた。ここが管理者川上さんのうまいところで、実に聞き上手である。  あまりのんびり構えているので、私たち三人はプランを練っても、これでいいだろうか、もっと工夫は出来ないかと一生懸命になって、再び口角アワをとばし合うという寸法である。  いまにして思えば、私など川上さんの掌で踊らされていたのかもしれない。  さんざんやらしておいて、自分の考えに沿うと「そうだ、それで行こう」と断を下すのである。 「オレは何をいい出すか判らんから、間違ったことがあったらどんどんいってくれ」  と、たえずいわれていた。そうこうするうちに、コーチとはイエスマンであってはいけないのだ、と思うようになった。  ゲームごとの検討会も活発だった。この検討会には川上さんは、監督としてではなく打撃コーチの資格で参加する。監督として出席されたのではコーチからキタンのない意見が出にくいからだ。  ゲームに勝ってもミスのあることがあるし、負けた場合、本当の敗因を摘出して手当てをしておかないと進歩がない。  ヤクルトとの試合(50年4月28日)で九回の表に、1点リードしていたのを武上に2ランホーマーされて逆転負けした試合があった。  もう少し詳しくいうと、九回の裏の守りで一死から永尾に安打された。巨人は倉田から関本にスイッチした。関本はこの永尾をケン制で一、二塁間に挾んだ。が、土井、王ら入り乱れてのランダンプレー(挾殺)の末、永尾を殺すのにしくじった。  このあと二死をとってから武上に2ランを打たれて逆転されたのだった。  このケースで、敗因はどこにあるのだろうか。倉田が永尾に安打されたことか、関本が武上にホームランされたことか。  それも敗因の一つであろう。が、私は、ランダンプレーの失敗がきわめつきの敗因だったと思う。もう九回なのだ、ゆっくり時間をかけて確実に殺せばなんのことはないのである。  こういう反省をコーチが出し合うのである。打撃、守備の担当コーチが「セキはどうしようもない奴だ」というかもしれない。投手担当は「また1点差だよ、もっと打ってくれなくちゃ困るなあ」と嘆くかもしれない。  各コーチがカンカンガクガクやって「ランダンプレーの失敗」が敗因というふうに、敗戦の元凶を摘出していく。  川上さんは実に丁寧にこれをやった。勝った時でもやるのだから、私たちはたまったものではなかったが、その積み重ねがミスの少ない巨人野球の土台になっているのである。  積み重ねといえば、選手に対するミーティングが、十四年間オフの一時期を除いて、毎日五分から十分間、朝礼のようにあったのだから、川上さんの考え方は選手の体にシミついているはずである。  滅多に怒鳴ったり叱ったりすることはなかったが、時にはカミナリが落ちた。長島が打撃不振の時、守備位置についていてバッティングフォームを作っていたりすると、「天下の長島ともあろうものがそんなみっともない真似はするな!」と強く叱ったことがある。  しかしこれは、長島を叱ることによって他の選手をピリッとさせる狙いを含めたもので、ふだんのミーティングは、精神論的意味合いの濃いものが多かった。  たとえば——。 「サーカスの芸人を見ろ。ロープを踏みはずしたら真っ逆さまに墜落して死んでしまうのだ。同じプロならサーカスの人を見習って命がけでやらなければいけない」 「故郷の人や友人が見ているのだ。恥ずかしくないことをしようじゃないか」 「子孫に優勝した時の記念写真を残してやろうじゃないか」 「優勝すれば、収入の面でもなにかと違いがあるのだぞ」 「キン玉ぶら下げて生まれたからには、社会に何かを還元しよう。それが男というものだ。世間に迷惑をかけて死んでは申し訳ないではないか」  どれも、特別にとり上げるとどうということはないが、こういうことを十四年間毎日少しずつ話していって、知らず知らずのうちに人間形成をしていったのである。  ミーティングで名ざしでほめることもある。六、七年前の宮崎キャンプで川上さんがある選手の名前をあげた。 「私が朝6時に散歩に出ると××は玄関でもうバットスウィングしていた。この精神だ。みんなも××のように努力したまえ」  ところが、この選手は実は朝帰りだった。こっそり帰ってくると誰かくる。監督だ。そこで慌てて玄関にあったバットを持って素振りしたのだった。  この真相を私は間もなく選手たちから聞いたが、黙っていた。そして一年後に川上さんにいうと、怒った怒った。いま思い出してもおかしくて仕方ない。  ときにはこんな失敗もあったが、信賞必罰を厳しくやっていた。  チームにはもちろん罰則がある。破れば罰金である。私生活の面では、社会人として恥ずかしくない人間に育てたいために他人や社会に迷惑になるようなことをしてはいけないと決めてある。グラウンド上では、チームプレーを乱したり怠慢プレーをすれば当然罰金である。この点についてはすでに詳しく書いたが、罰則は巨人軍のルールなのだから守らなければいけないのだ。  管理上で難しいのは、こういうチームのルールとは異なる臨時の禁止事項である。結論からいえば、巨人には、自粛はあったが禁止はなかった。  シーズン中によくあることだが、投手陣の成績が悪いような時「マージャンをやめさせようか」という話が出る。が、V9巨人では、 「マージャンを禁止したら、外出するしかヒマつぶしの方法がないだろう。マージャンをやめてみんなが本を読んだり早く寝たりしてくれれば理想的だが、そうは問屋がおろさない。酒を飲みに外出するのがオチだ」  という考え方から、禁止するのではなく「時間の制限」をすることにして、「3時以降は新しいイニングに入らない」とか、「三回以上登板しないこと」などと規制を加えて、自粛させることにしていた。また、坐ってやると腰に悪いから、旅館側と交渉してイスを用意させたりしたものである。  遠征先などでのマージャンは選手の楽しみである。その楽しみを根こそぎ奪っては逆効果である。  さて、いままで見てきたように、練習し、ミーティングし、ルールを守ってやってきても、最初から、そしてみんながみんな模範的であった訳ではない。  川上さんは、大声で怒鳴ったりわめいたりするかわりに、箸にも棒にもかからない石を、斬ってきた。一般社会では配置転換くらいでクビはないだろうが、巨人ではクビである。  監督の前と後ろには首斬り包丁を持ったオーナーとファンがいるのである。信念に基づいて思いきりやらねば自分のクビが飛ぶ。クビをかけての商売なのである。  だが、小は投手の交代、打者の交代から大はトレードまで、監督も首斬り包丁を持っており、それを有効に使わなければ、管理者としての監督はつとまらないのである。強い巨人を作り、勝つために川上さんはそれを有効に使った。  39年に巨人を震撼させた広岡問題が起こった。かいつまんでいうと、ことの発端は、当時、川上体制下の選手兼コーチであったスタープレーヤーの広岡くんが野球週刊誌に筆をとって、「川上監督の作戦は間違っている」と書いたことである。  これは許されないことである。選手であるものが監督の指揮作戦を外部で批判することが許される訳はない。川上さんは「けしからん」と立腹した。チームに影響力のあるスタープレーヤーのこのような行為は、チームにとって有害である。広岡くんの批判は一度ならず二度も三度もあって、徹底的に批判的だった。川上さんは「巨人をやめさせる」決意を固めた。  ところがこの決意を知った広岡くんが故正力オーナーに直訴した。広岡くんは自分が打てないためにやめさせられる、と訴え、正力オーナーは「ではもっと打つようにしろ」と退団をとどめた。川上さんにすれば真意が伝わっていなかったのだが、オーナーの断となれば仕方ない。一年間待って、正しい理由を告げて広岡くんをやめさせた。  ここで大事なことは、二人の考え方の是非、正邪ではなくて、監督の統制に大きな障害のあるものは、たとえスターであっても斬るという厳しい管理者の信念と態度である。  広岡問題に決着をつけて、川上さんは文字どおりの独裁者になった。そして前人未踏の九連覇ヘスタートすることになった。  ところで、ここに一つの奇妙な事実がある。それは、広岡くんが川上さんを不信するに至った一つの事件——神宮球場で打者・広岡の時、三塁走者の長島がホームスチールを企ててアウトになった有名なシーンに関してである。  広岡くんはこのホームスチールについて、「自分が打てないと見越して川上さんがホームスチールのサインを出した」と思い、「そんなにオレが信用出来ないのか」とバットを地面に叩きつけて怒った。  その時、私は三塁コーチャーだった。ベンチの川上さんからサインを受けて選手に伝えるコーチャーだった。その私は、あの時、ホームスチールのサインを出していなかったのである。  なぜ長島があそこでホームヘ走ったのか、実は私にも、いまだに不可解なのである。その点について長島は一切弁明してはいない。  つけ加えておきたいことは、あの時いらい川上さんと広岡くんの仲が冷えきったままだと思われるかもしれないが、二人は一年ほど前に和解して、過去のいきさつを水に流している。 人間・長島茂雄の素顔  チャンスがやってくると、巨人のファンは思うだろう。 「ここにミスター・ジャイアンツがいたらなあ」  私もそう思ったし、長島監督自身も思ったに違いない。ミスター・ジャイアンツは、チャンスによく打つ長島への尊称で、過去の川上、青田、大下、藤村、別当……ら、たくさんの名打者の中でも、チャンスに強いことでは第一人者であったと思う。本当に全盛期の長島はすごかった。いまの、好調の時の王と同じで、二塁に走者がいれば必ず歩かされた。  私が中日にいた34、35年には、 「満塁でも歩かそう。勝負すれば2点はとられる、歩かして1点に抑えよう」  と作戦を練ったほどである。こんな打者はほかに二人といなかった。  こういうONを敵にまわして戦った他の五球団はさぞ大変だったろう。幸い私は、このONが味方だった。だからいまこうして「V9の秘録」を書いていられる。運命とはいえ、ありがたいことだ。  この名打者が監督になった。周囲には心配する人が多かった。が、川上さんはこういって「成功するから心配するな」といった。 「あれだけのバッティングの技術とカンを持っている天才はザラにいない。それだけでなく、何度かあったスランプを、自分の力で立ち直ってきた体験があるから大丈夫だ」  現在まで私の見るところでは、打撃に関しては自信を持ってやっている。  とくに代打の使い方がうまく、成功率は恐らく川上さんをしのいでいる。相手投手の特徴と味方打者の特徴をうまくかみ合わせて起用しているところは、新人離れの手腕といってよい。みごとなものである。  難しいのはやはり投手の起用で、これが今後の課題だろう。  なにぶんにもコーチとしての時間を持たないでいきなり監督になったのだから順当なコースを踏んでなっても難しい監督が、そうやすやすと満点でやれる訳はなく、したがって半年や一年で監督・長島を語るのは妥当でない。V9時代の人間・長島から今後を類推してもらいたい。  長島という男は、一つのモノ差しでは測れない男である。たとえば、実に繊細な神経を働かせるかと思えば、一方では全く無頓着な部分がある。  よく笑い話のタネにされる「忘れもの、自分のものと人のものが一緒になる」無頓着ぶり。長島は現役最後の年に、私たちと同じ幹部ロッカー室に移ってきた。後楽園の場合は選手が二階で、幹部は一階と区別してあるのだ。その幹部のロッカー室でもバスタオルやスリッパが頻繁《ひんぱん》にどこかへ行っちゃう。そしてとんでもないところから出てくる。  犯人はハッキリしている。それ以前にはなかったことなのだし、みんな知っているから詮索するまでもない。みんなタオルに名前を書いたり、一目で判る原色のものに代えたりした。が、ご本人は、バッグの中にこそ手を突っ込まないが、ちょうど目についた人のスリッパを突っかけて二階の選手のところへ上がって話し込み、なんかの拍子にそこでまたハキ違えて帰ってくるという傍若無人ぶりだった。  こういうところがあるかと思えば、チームメイトの冠婚葬祭的なことへの気の配りはびっくりするほどである。50年7月11日の対阪神戦でジョンソンが初めてスタメン落ちして、富田が先発したが、聞けば、富田はその前夜、夫人の父親を亡くしていたそうだ。  これは、岳父の死をいたんで富田を起用しただけではないと思うが、たとえばこういう身辺に不幸があると、それが奥さんのおじいさんだろうが見落とさないでオクヤミをし、子供が生まれると一番先にお祝いするのも彼である。  私はずっと以前に練馬から代々木へ引っ越した。こっそりと引っ越したつもりだったが、その二日後、ピンポンパンと鳴るものだから、片づけの手を休めて玄関に出てみると、なんと知らないはずの彼がいるではないか。こういう面の心遣いは実に徹底していて、みんな恐縮している。  無頓着でいて繊細な気のつき方に関係あるかどうか、長島は決して人の悪口をいわない。ホメることが多くてホメ方がうまい。それが、往々にしてトゲトゲしくなるムードを柔らげることがある。  41年の秋、堀内が広野(当時中日)に代打逆転満塁サヨナラホームランという満艦飾みたいな一発を打たれた。中日球場からの帰りのバスで、私たちは「なんであんな甘いタマを投げるんだ」と堀内を責めたくなる心境だったが、その時、頭のてっぺんから抜けて出るような明るい声で長島がいった。 「あの広野っていう新人、素晴しいねえ、あそこで打つなんてすごいよ、ウン、広野ってのはすごいなあ」  バスの中はいっぺんに、そうだあいつがすごかった、となってムードが一変、堀内を責めたいと思っていた気持ちがどこかへ行ってしまった。堀内をかばうという意識より、バットマンとしての自分の経験からそういう発言になるのかもしれないが、性格がにじみ出ている。  人の悪口をいわないほどだから、人を欺すなんてことは一切出来ない。マージャンの打ち方にもそれが出ている。  42、43年ころまではネギをしょったカモだった。大きな手を作ってテンパイすると、もうニコニコして「さあ、オリるぞ。オリた、オリた」。これが出たら私たちがオリればいいのである。正直というかシャミセンが弾けないというか、こんないいお客さんは二人といなかった。勝った負けたにはあまり関係なく、時間をもて余した時にする程度の遊びだったが、マージャンはマージャンだ。負け金をセッセと払っていた。  腰が痛くてやらなかった月などは、月給日(年俸が分割されて払われる)に「今月は勝った、払わなくてすむから勝った」と喜んでいた。  マージャンはこんなふうだったが、将棋はうまかった。私も対局したことがあるが、見かけによらず、ガードの堅い将棋である。  が、彼とやる時は、よーく見ていなくてはいけない。ひょっと、角が桂馬的な動き方をすることがあるからだ。トボケて知らん顔をしてこの“奇襲”をかけてくるから気が抜けない。が、これも相手を欺して勝とうというのではなく、遊んでいるのだ。  ところが同じ遊びでもゴルフになるとちょっとばかりシツコクなる。ゴルフは私がすすめた。オフになると箱根や大仁へ山ごもりして、新聞は写真入りで「毎日走って、猛自主トレ」などと書いているが、帰ってくるといつも丸々太っている。 「走ってたのじゃないの」というと「まあまあ、いいじゃないですか」と笑っている。  そこで、太らないためにゴルフをやったらとすすめたのだ。最初は「朝が早いからなあ」と渋っていたが、やりだしたら面白い。はじめから100ヤード以内の加減が出来る器用さで、二年目にハンディ12か13、三年目にはシングルになった。  それ以後は大仁の山ごもりでよくやっていたらしく、山ごもりから帰った後のコンペはいつも強かった。だから私たちが勝てるのは、十一月と十二月だけ、年を越すともう、便所に逃げ込んで「握り」にくる彼から逃げたものである。  長島のゴルフで面白いのはアドレスの長いことだ。久邇カントリーだったか、長島が9番にいて柴田が18番にいたそうだ。柴田がティーショットする時、9番の長島がアドレスしていた。柴田はそれを見てからショットして、240ヤードほど歩いて第二打を打とうとして、ふと見ると、長島がまだアドレスしていた、などという伝説がある。それくらい長くて慎重だ。  川上さんも、これほどではないが時間をかける口だ。で、コンペの組み合わせを作る時は、ハンディで平均をとるのではなく「時間で平均」をとるように心がけたものである。そうでなくては、川上さんや長島が先に出るとあとがつかえてどうにもならなくなるのだ。  ゴルフをやるようになってからオフに太らなくなって、選手寿命が二年はのびたと私は思っている。  もちろん長島本人の体への注意は大変なものだった。へんとう腺が弱いためタバコをやめたことにはじまり、食生活にも注意を払っていた。  たとえば遠征中である。遠征先のチームのスケジュールは朝十時に朝食、午後二時に昼食、ゲームが終わってからステーキやスキ焼きの夕食、となっているが、長島のは違う。  まず朝は八時半か九時に軽くとって、正午に昼食。ここで、他の選手が夜食べるような肉を主体にした豪華なのをとって、夜はメバルの煮付けとごはん少々とか、ウドンですませるのだ。  夜は、胃に負担のかかるものは食べないのだ。47、48年はとくに規律正しくやってそのシーズンを全うしたが、最後の年となった49年には「食事は八方破れでいく」とかなりこの規律を崩していた。  健全な肉体があればグラウンドで活躍出来るという考えのもとに体に気を使ったのだが、長島がまだ脂《あぶら》ののりきったバリバリのころ、時々スランプが訪れていた。  スランプになると四六時中バッティングのことを考えていて、夜寝ていてもガバッと起きて急にバットを振り出すそうだ。遠征先で同室になった黒江が、 「ゴルフの夢を見られたらオレの頭が割られちゃう」  とこわがった。ひとしきりバットを振ったあと、バタンと倒れるように横になると、グーグー眠ってしまう。眠れないのは黒江である。  スランプの長島をメンバーからはずすかどうかで首脳陣の間で議題になったことがある。あれだけの大選手である。川上さんはコーチ陣にはかった。  V9の初期のこと、名古屋—大阪—広島の長い遠征。名古屋と大阪で長島の当たりがバッタリと止まった。私は、 「広島への移動日を利用して一日家へ帰したらどうか」  と提案した。  会議での私の提案理由は「家へ帰すことによって長島の気持ちに刺激と負担をかけてみる」というモットモなものだったが、実際は、のちにロッテの金田監督がやった生理休暇のためだった。私は長島から、東京を出る時カクカクシカジカで目下フルタンクなんだ、と聞いていたからだ。  この提案が入れられて一日休暇をとって駆けつけた広島で、打った打った。5打数4安打でホームランも。三試合とも大当たり。感激と“体調のよさ”でスランプはいっぺんに吹っ飛んでしまった。  その後もう一度、大阪—広島遠征でスランプになって会議が開かれた。この時は川上さん、荒川コーチから「この前の例にならって休ませて気分転換させよう」という意見が出たが、私は反対した。この間はシカジカの訳があったが今回はないのだ。単に休ませただけではなかったのだが、それを喋《しやべ》る訳にいかず弱ってしまった。  結局、本人の意志で欠場しなかったのだが、この時の長島の欠場拒否の理由がなかなかのものだった。長島はいった。 「打率なんて問題じゃないんです。スランプの時の技術をきわめてみたい。スランプと格闘してその中から脱出の糸口をつかんでみたい。試合に出ていなかったらそれが出来ないですよ」  遊びごとは楽しみだけで、日常生活は無頓着と繊細で、と非常に入り組んだ性格の男だが、野球に関しては真っ向から取り組んできたのである。  ついでにいえば、長島はサイン見落としが多かったように伝わっているが、合計十一回の日本シリーズを通じて、ミスは一度もなかった。ペナントレースでは、バントのサインが合計六回あったが、見落としのなかったことをつけ加えておこう。  生活を通じての奇人ぶり(?)は、もしかしたら血液型と関係があるかもしれず、V9巨人の三奇人といわれる川上、長島、関本の三人はいずれもB型である。奇人めいたところと凝り性で気の多いところなど共通点が多いのである。  さて、長島の思い込んだら命がけ的な熱中心は、亜希子夫人との結婚にいかんなく発揮されていたようだ。  39年の東京オリンピックで知り合ってから射止めるまで、長島は毎朝、五時か六時に亜希子さんの家へ行ったそうである。まさに通いつめた訳で、通うかたわら頻繁に電話をかけて攻めたてた。そうやってニジリ寄るように押しまくって、その年の秋のオープン戦がきた。  だいたい、長島は秋になるとカゼをひくことになっていて、オープン戦は休みなのだ。それが張り切って別府のオープン戦へやってきた。別府には藤田コーチの親友が私と長島を一緒にフグ料理に招待してくれるならわしになっていた。  私たちは宿舎の白雲荘の玄関で長島を待っていたがちっともこない。「早くせんかい」とこっちは腹をグーグー鳴らしているのにモソモソして、やっと連れて行くと、フグをまたたく間に平らげて、「今日はちょっと、失礼します」と帰って行った。彼のフグの食べ方は、皿の半周くらいをガバッと一口で食べ、メシがわりなのだから、時間は少なくても量だけは食べている。そうやって風のように出て行った。  その夜おそく、私たちに東京から彼女がきていることを白状した。翌日の大分球場での試合がものすごかったことといったらなかった。  この遠征から帰って東京でオーナーがご苦労さん会を開いてくれた。その席で長島が公表し、亜希子さんがみんなに紹介されたのだが、あのころの長島の輝いた目と、早起きをいとわず、下北沢から渋谷・松濤《しようとう》の亜希子さんの家に通いつめた熱意は、いま、そのまま巨人軍に注がれている。  ほとんど休みなしの猛練習を続けて、四六時中チームのことを考えている長島にとって、巨人は、まさに亜希子さんなのではあるまいか。 人間・王貞治の素顔  V9の巨人を語るうえで忘れられない三人目の男は王である。いうまでもないことだ。  私は、王といえばついつい戦前の教育勅語を思い出してしまう。礼儀正しく、親を大切にし、先輩に一歩譲って謙虚であって、それでやるべきことはちゃんとやる。人格高潔、実力抜群。気がやさしくて力があって、これでスランプというものがなかったならば、パーフェクトな野球人であろう。が、私がここでいくら口をきわめて王を誉めてみてもはじまらない。そんなことはファンが百も承知だからである。  そこで私としては、王の私生活の人間性を語って、多少とも従来の王論と違ったものをと心掛けねばならない。  こう思って十数年にわたる王との接触を振り返ってみると、あった。王を物語るいくつかのファクターがあったのである。  その一は、王の食い方飲み方で、四字の熟語で表現すれば、ズバリ“鯨飲馬食”がふさわしい。  前にも書いたことだが、王の胃袋は、川上さんと並んで規格外である。ものすごい。オフになると私たちはよくゴルフに出かけたが、その昼食のメニューはだいたいこうだ。 「牧さんは何にしますか?」  王には、どこか幹事役的なところがあって、こういう場合、みんなの注文をとりまとめてウェイトレスに伝える役を買って出る。 「オレはカレーにするよ」  と私がいって、あとの二人も料理を決める。それを王がまとめて注文するのだ。 「カレー二つ、ハンバーグ二つ、ポークソティ一つ、それからカツ丼一つね」  四人でこんなに注文するのでウェイトレスが怪訝な顔をするが、「間違えないようにね」と念を押すのが常である。つまりこのたくさんの料理のうち、カレーライスとハンバーグとカツ丼が王の注文なのである。カレーなんてスープの代わりで、ハンバーグがカツ丼のおかずという具合いである。  この盛りだくさんな昼食をスッスッと腹に詰め込みながら「帰りには何を食いましょうか」と、もう夕食の心配をしているのだから、普通人の私など、たまったものでなく、気持ちが悪くなってしまうのである。  中華料理の会食などでは、王は孤独である。王と同じテーブルにつくと、片っぱしからものすごいスピードで食べられてしまうから、みんなが敬遠する。実際に割りが合わないのだから仕方ない。球団の、年をとって少食になった職員などが、王のテーブルについて空席をつくろっていたものである。  酒はものすごく強い。彼が飲み比べをして負けたのはただ一度だけだそうである。相手は横綱時代の大鵬で、週刊誌の対談で顔が合って飲みはじめ、一升ビンを何本あけたか知らないが、ついにダウン。ゴロリと横になってひと眠りして目を覚したら大鵬がまだ飲んでいたという。  何年前だったか、当時中日の江藤と首位打者を争って負けたが、あとで王が、 「あのころは毎晩ジョニ黒を一本ずつあけていた」  といったことがある。私が聞いたところでは、江藤は江藤で毎晩一升ビンをカラにしていたそうだ。豪快無双な“酒位打者”争いだった訳だが、二人とも浴びるように酒を飲んで、緊張と不安とストレスを解消していたのであろう。  王の酒は、理屈っぽくなる酒である。ふだんより一段と雄弁になって、理詰めでガンガン押してくる。たまらないから「腹の調子が悪い」などといって逃げようとすると、あの太い腕を首根っこに回して、 「同じものを食べて同じものを飲んで、ぼくがなんともないのに、おかしいじゃないですか」と、やっぱり理詰めである。  私の酒はどちらかというとグチッぽくなるようだが、私がグチると、「まあまあ、そう気にすることないですよ」と慰めてくれる。だから、王と酒を飲む時は、こちらがす早く酔ってしまうに限るのかもしれない。  この豪快な王も、この一、二年はあまり鯨飲馬食の武勇伝を作っていない。やはり王も歳をとったのであろうか。  飲み、そして食べることの次に目立つのは、気のやさしさである。酒を飲んでグチる私を慰めてくれたのも王がやさしい男だからであろうが、酒を飲んでいなくても、相手に気を配る男である。  45年に王と一緒に台湾へ行った時である。台湾の少年棒球隊の指導者をコーチするために呼ばれたのだ。王は国賓待遇で護衛までついている。もちろん私も至れり尽せりの丁重このうえない好遇だったのだが、夜おそくホテルの部屋のドアを叩くものがいる。出て行ってみると王が立っていて「何か不自由はありませんか、あったら遠慮なくいって下さい」と気を遣ってくれるのである。  巨人は毎年のように札幌へ遠征するが、王がこの札幌で欠かさずやっていることがある。身体障害児の施設へ見舞いに行くのである。最初は連れて行かれたのだろうが、子供たちのうれしそうな顔をみて、以来自分から行っている。ホームランを打ってもらった賞品を中心に、慰問の品々を持って行って、子供たちから千羽鶴などを贈られている。そして翌日は外野席に子供たちを招待するのだ。  こういうことは、なかなか出来るものではない。巨人の選手なら、誰にだってやるチャンスのあることなのだが、毎年欠かさずやっているのは王だけである。  サインだってそうだ。巨人の選手はみなサインには気持ちよく応じているが、王はねだられる頻度と量がケタはずれに多いのに、イヤな顔ひとつしないでやっている。 「子供のころ後楽園へ野球を見に行って、巨人の選手にサインをねだったがやってくれなかった。ただ一人与那嶺さんだけがやってくれた。あのうれしかった気持ちを一生忘れない」  という王ならではのことである。王が子供ファンのアイドルになっているのは、単にホームラン王だからではない。こういうやさしい気遣いが子供たちに通じているのである。  だが、こういうやさしさがある半面、彼ほどガンコな男も珍しい。そのガンコさが王を稀代のホームラン王にしたといってよい。  王が一本足で打った最初の日は、37年7月1日の川崎球場である。  あの日、私は球場のロッカー室で、川上さんと別所コーチと三人で王について話し合っていた。そのころの王は、非常に不安定な中心打者だった。私たちが額を集めているところへ荒川コーチがきた。荒川コーチを見て川上さんがいった。 「どうだ、反動でもつけて打たしてみたら……」  荒川コーチも王には手を焼いていたところなので「やってみやしょう」ということになって、即席で片足を上げて打つ練習をさせた。その練習の内容がよかったかどうか、そんなことは覚えていない。その時は、これが一本足打法誕生の歴史的な日になるなどとは思ってもいないから、よく見ていなかった。  が、きっと練習の感じがよかったのだろう。試合でも片足を上げて打った。そして大洋の稲川投手からホームランを打った。二塁打も打った。  これがきっかけになって、王と荒川コーチが一本足打法の完成に打ち込んでいくのだが、この日から約五年間の血のにじむような努力は、王がたぐい稀なガンコ者だったから出来たのだと思う。いったん決めたらなにがなんでもやり通すガンコさである。毎日毎日荒川コーチの家へ行ってバットを振り続けたのである。  王は、投手として入団したが、打撃の方の素質を生かすために打撃専門に転向して芽が出ないまま、腐っていた。荒川コーチは、王を中学生の時に見つけ出して早実へ入れた関係から、王を育てるために巨人に招かれたものの、うまくいかずに困っていた。  二人に、こういう瀬戸ぎわの事情のあったことが、ちょうど昔の武芸者を思わすような熱烈な師弟関係を結ばせた。王も荒川コーチもガンコなまでに一本足に執着して完成させたのだった。  46年荒川コーチが退団したあと王は何度もスランプに落ち込んだ。そのつどいろいろな人がアドバイスした。が、王はアドバイスに耳を傾けながらも「ウン」とはいわない。一本足の打法については「オレしかわからないのだ」という信念をガンコに抱き続けているからだ。  川上さんに対してすら「ハイ、そうですか」ということをしなかった。川上さんのガンコをしのぐガンコさだった。王はバッターボックスに入って、相手投手の一番早いタマにタイミングを合わせている。一番早いタマが打てればあとのどんなタマでも打てるという信念である。そのガンコな信念でホームランを打ち、二年連続三冠王の離れ技をやってのけた。  王は、自分の打撃技術のチェック・ポイントを言葉で表現しうるまでにつきつめている。言葉で表現出来るということは、理論化しているということで、これは大変なことなのである。プロ野球の世界で、これをやれる人は実に少ないのである。  さて、鯨飲馬食からやさしさとガンコヘと、王の人間性をながめてきたが、人の性格がよく現われるマージャンやゴルフはどんなだろうか。  王のマージャンは、ひと口にいえば、自分だけで満足しているマージャンである。それはあたかも一本足打法作りに邁進したのと似ていて、手作りに一生懸命で、勝負は二の次である。三色やイーペイコウを積木細工のようにネチネチと作っている。捨てパイにあまりかかわりなく、手作りに夢中であるから、何を作ろうとしているかすぐ判ってしまう。だから強くない。しつこくしぶとい勝負など、まずやったことがなく、長島ほど気前よく負けることはなかったが、所得に応じた支払いをしていたようだ。  手作りがみごとに決まると場外ホーマーをかっとばしたように大勝するが、往々にして人の手の方が先に完成してしまうのだ。  ゴルフは、左利きなのだが、右のクラブを使っている。なんでも、最初にやったのがハワイで、その時左のクラブがなかったためにやむなく右のを使ったのが習慣になったのだという。  王は早起きがニガ手で、巨人に入団した年の最初のキャンプで、同室になった伊藤投手(現スカウト)が「起きろ」とフトンを蹴っとばしたところ、「あと五分寝かせて下さい」といったくらいの寝坊助だから、やはり最初は、朝がつらいからやりたくない、といっていたものだ。  が、やり出したら面白い。たちまち腕を上げるのだから、教える側のこちらは面白くない。教えた年のうちにスクラッチ、翌年には先生の方がハンディをもらう始末である。飛ばし屋である。それでいて堅実で、キャディにコースの条件をよく聞いて、攻略の設計を頭に描いてから攻める。だから、最終的なスコアよりも、設計図どおりの攻略が出来たかどうかを楽しむ口で、ここにも彼の性格がうかがえる。  ソロバンは早実時代に三級の実力。いまでも4ケタのタシ算は暗算出来るだけあって、マージャンやゴルフのスコアの計算は全部やっちゃう。  記憶力も抜群で、自分の打った660本のホームランを、いつどこで誰から打ったか、たちどころにいってみせる。まるでコンピューターみたいな頭である。  最後に彼の特色は、ケガに強いことである。一番大きかったケガは、三塁で徳武(国鉄)にスパイクでスネを引っかけられた時で、スネの皮が破れて、白い骨が見えたものだった。三塁コーチだった私はゾーッと血の気が失せたが、あんな大ケガをしても治るのが早かった。  こういう大ケガ以外では休んだことのない王が、50年の当初、10試合もフル出場出来なかったのは、相当悪かったのだろう。  競馬では、無事これ名馬というが、王こそ無事これ名選手の代表である。  王は、巨人40年の歴史の中の二人目の一塁手である。一人目はいうまでもなく川上さんである。この二人にはいろいろと人間的に似たところがあるが、一塁手としてはどっちが一番だろうか。  私は、川上さんには悪いが、チームプレーを加味した近代野球の一塁手としては、王が一番だと思う。川上さんの時代には近代野球がなくて、その野球を巨人に植えつけ、王を育てたのが川上さんなのだから、一塁手二番の順位に甘んじてもらわねばならない。複雑なチームプレーやバント・シフトをみごとにこなし、投手出身だけあって強肩でコントロールがよく、たとえホームランを打たなくてもダイヤモンドグラブ賞の一塁手である。  これからのち、王をしのぐ一塁手は出現しないだろう。打撃人としても彼に迫り追い越す人は見当らない。長島の引退の陰に隠れてしまった王の二年連続三冠王の記録は、古今東西、それから今後も、二人と現われない壮大な快挙なのである。中国の故事に、漢の名将韓信は“国士無双”と称せられたとあるが、王はプロ野球界の“国士無双”といってよいだろう。  50年の7月、この記録に対して母国である台湾政府から体育奨章という勲章を贈られた。これは台湾では十種競技の揚げ楊伝広と女子短距離の紀政の二人にしか贈られていないスポーツ選手としての最高の栄誉である。  また、52年に台湾の新竹県に「王貞治球場」が建設されることになったのもめでたいことだ。 人間・森昌彦の素顔  子供のころ父親がたくさんの借金を残して死んでしまったら、その子はどんな人間になるであろうか。おそらく、人一倍金がほしくて、ありがたみを痛切に感じて、したがって金の稼ぎ方と使い方に賢くなって、友だちにケチといわれようがツキ合いが悪いとケナされようが耳を貸さず、自分の生き方に執着していく人間になるのではないかと思われる。  私はONに続くV9ナイン三人目の重鎮として森をみる時、こういう生いたちが運命的に彼を支配しているように思えてならないのである。  森は、父親の作った借金を、バットとミットでコツコツと返した。どのくらいの負債があって、いつごろまでに完済したのか、詳しいことは知らない。が、彼が他の選手のような遊びを自制し、ムダな金を使わず、ために周囲からケチ森だとか岐阜の貯金箱だとかいわれながら、稼いだ金を父親の借金返済にあてていたことは事実なのである。  こんなことは、めったに口にしない。いろいろな評判にも弁解ひとつしない。だから、森は大変金を貯め込んだようにみられている。たしかに金も貯めただろう。が、あまり知られていないこういう親孝行もしてきたのである。  森はよくいっていた。 「金を使って一緒に遊んだって、ボクに金がなくなったら、遊んだ人が食べさせてくれるやろか。世の中、そんなことあらへんで。掌かえすように冷たくなるに決まっとる」  遊びを自制して、では、借金返済と生活費以外をすべて貯金したかというと、決してそうではなかった。ムダ遣いせず有効に使うというのが森の生活信条なのだった。  森ほど、オフシーズンに海外旅行に出かけた選手はいない。それも一人で行くのではなく家族を連れてである。本当の根っからのケチなら、毎年のように海外旅行などするはずがない。もっとも、そこは合理的な彼のことである。知っている旅行社から格安のパックを手に入れて行くのだそうだが、それにしたって、私など十三年間の巨人軍生活中に家族を引き連れての海外旅行などしたことないのだから、森の家庭を大事にする精神は立派である。  数年前、家を買った。故緒方竹虎邸のあとで、いまなら数億円にのぼる大変な買いものである。ムダ遣いをやめてコツコツと貯めて、土地が大高騰する前にバーンとキャッシュで買うのだからみごとなものである。  要するに、遊びごとのマージャンはCクラス、ゴルフは万年ビギナーであるが、使うところではガチッと使っているのである。つまり、無類の生活派なのであって、たとえば「机を買いたいがどこで買えばいいかね」と訊かれると、たちどころにドコソコのが安くて品物がよいと答えられるような生活知識を身につけた知恵者なのだ。  商品知識の豊富さは、さながらデパートのバイヤーそのもので、事実、東南アジア旅行から帰ったあとなど、デパートヘ出向いて海外市場の土産話をするくらい精通しているし、宝石を見る目をもっているし、経済市況にも通じているといった具合である。  食べものにも詳しくて、美食家である。どこのステーキがうまくて安いか、スシならどこで、イタリア料理はあそこだ、とこと細かく知っている。キャンプなどでは自分で料理を作る。焼きそばとぞうすいの味付が抜群で、選手から人気があった。  堀内と富田の結婚式では世話人を引き受けて、安く豪華にと腕をふるってもいる。森はちょっとした生活学の博士で、そこいらの主婦顔負けの女房ぶりなのである。  それもこれも、父親の借金返済をしなければならなかった生いたちと、そこからくるムダ遣いしない習慣のたまもので、そのおかげでいま森は、ユニフォームを脱いだあとも生活に困ることなく生きていけるのである。なにが幸いするか判らない。  森はこのように日常生活面でも、女房的な性格の男である。その男が、野球の世界における女房的役割の捕手をつとめたのだから、成功を収めて少しも不思議はなかった。  V9の間の捕手は森一人だけだった。森は藤尾を抜いて正捕手になったのだが、彼に競《せ》りかけて行った捕手は、ことごとくこっぱみじんにハネ飛ばされた。  大橋(巨人—大洋、退団)は東京六大学随一の慶大の捕手だったが、リード、キャッチング、スローイングともに森に追いつけなかった。  槌田は、立大時代に三冠王をとった打撃で森に競りかけたが、全く相手にならず、川上さんは槌田を外野手に転向させてしまった。  最後まで第二捕手をつとめたのは吉田だったが、森がもうヨロヨロしはじめたV9の年にも最後のV10ならずの49年にも、遂に抜くことが出来なかった。  私は、もし田淵が巨人に入っていたとしても二、三年間はレギュラーになれなかったと思っている。昨年あたりやっと一人前になって羽ばたきはじめたところではないかと思う。  それだけ森は勉強し、経験を蓄積して実力にしていた。この森と肩を並べているのが南海の野村監督で、野村と森が日本プロ野球の二大捕手であったといってよいだろう。この二人は仲がよく、森は大阪へ行くと野村の家へ寄って技術、精神面のこと、リードなどいろいろなことを学びとって、野村に負けない捕手になって行った。ちょうど金を貯める心掛けと同じで、コツコツと勉強を積み重ねて頭脳と技を磨き上げたのだ。  だから、こういう努力家からみれば、勉強しない投手が腹立たしくて仕方ない。ついついいってしまう。 「ボクくらいとはよういわんが、もうちっとなんとかならんかいな」 「勉強もせんと、なに考えとるのかサッパリ判らへん」  などと投手の悪口ともグチともつかぬセリフを吐いて、いつの間にか“グチ森”とか“泣き森”というアダ名までつけられた。  私は、この森のグチに再三つき合わされた。森は、実戦面の責任者的役割をつとめる捕手だから、私たちとデータの分析、相手打者攻略について、フォーメイションなどの作戦打ち合わせで、ヒタイをつき合わせて話し合ったものだから、こういうグチもたくさん聞かされている。  が、あれは森のストレス解消法なのである。グチグチいって腹の中をスッキリさせて、明日への精神的健康を取り戻していたのである。ストレスを腹の中に収める人や、いいたいことを大声でいってスカッとしている人と同じように、グチってストレスを解消する人もいるのだ。いちがいにグチ森といって悪口をいったのでは、ケチ森というのと同様、人間・森の半面しかみていないことになる。  それに、森がグチっぽくなったのは、ひとつは私たちにも責任があったのではないかと、いま反省している。というのは、川上さんや私たちは、森を“叱られ役”にしていたのだった。  投手はみんな若かったし、投手人種はデリケートで女性的である。だからそういう投手を叱りつけて、自閉症にでもなられたら大変である。  そこで、私たちは投手に聞かせるために森を叱った。 「モリ! なんであんなタマ投げさすんだ!」 「おい、モリ! ちょっとこい!」  なんでもかんでも「おい、モリ!」ではないのだが、森にしてみれば「オレじゃなくて投手が本当に悪いんだ」と思うこともあるだろうし、中には、身に覚えのないことで、「おい、モリ!」とやられたことだってあるだろう。それでいて投手が好投すると、誉められるのは投手である。  森くらいの捕手になると、私たちの投手操縦術の一環として自分が叱られ役に回っていることぐらい知っている。が、知っていても人間である。ストレスが貯まっていって、どこかで吐き出そうとしてグチグチいうようになったのだ。  その点、私はすまなかったと反省している。子供の不始末を女房のせいにして、子供の前で女房を叱りつけた以上の申し訳ない心境である。  川上さんは森の技術と実力を信頼していた。投手交代の時、川上さんが森をベンチ前へ呼んで意見を聞く。森は捕手としていまマウンドにいる投手をかばいたい。しかしチームが勝つためには本当のことをいわねばならない。  森には、ONにも誰にもなかった監督と投手の板ばさみという苦しい特殊な立場があったのだ。二人がベンチ前で相談してから降板させられると、その投手は、 「また森さんがオレを悪くいったな」  と怨みを森にもっていく。  この板ばさみを救うために、森と私で秘密サインを作ったこともあった。森が、投手に限界がきたと感じた時、ひそかにグーパーのサインで私に知らせ、私から監督にいう仕組みである。  こういう、人には判らない苦しい立場にいながら、好投すれば投手の力で、失敗すれば「おい、モリ!」なのだから、捕手というポジションはしんどいところである。  だが、私は、捕手はそれでいい、そういう職業なのだと思っている。よく、好投すると「キャッチャーのリードがよかった」と論評するムキがある。たまにはそういうこともあるだろう。が、捕手のリードは、実は「お伺いをたてる」気持ちでするものでなくてはいけないのだ。  捕手が「リード」する場合、彼はライフルで撃つようなコントロールを要求しているのだ。そんなタマが百発百中投げられる投手なら、なにも捕手にリードされなくたって好投出来るであろう。  捕手が「お伺いをたてる」気持ちでサインを出してこそ、投手はピッチングを覚え、成長していくのである。それを、捕手がしゃしゃり出て、ああせいこうせいと、ライフルのコントロールを要求していたのでは投手は育たない。  V9の巨人では、だから捕手のサインに投手が首を振ってもよいことにしてあった。好投するのも打たれるのもすべて投手なのである。その打たれた時、捕手がオレのリードが悪かったといってこそ、女房役である。  いい捕手とは、投手が強気に攻めたい時はそれを受けとめ、弱気になっている時は励まして強気に転じさせる駆け引きの出来る捕手である。これをバッテリーの呼吸というのである。  吉田が森を抜けなかったのは、この駆け引きが下手だったからである。吉田は強気なリードをするといわれていた。事実、そういわれても仕方のない一本調子なところがあった。老練な森の手練手管に及ばなかったのは当然である。  が、だからといって捕手のリードがよければ好投出来るかといえばそうではない。もしそうならば、野村監督の南海やV9巨人には20勝投手がゴロゴロしていなくては辻褄が合わないではないか。  ちょいちょい見かける「捕手のリードが完封の原因」などという論調は、さきほどみた捕手の悲哀——好投すれば投手の力、失敗すれば捕手のせい、の裏返しの悲哀と逆怨みを投手に与えるだけのことで、ひょっとすると、そのチームのバッテリーを分裂させる陰謀であるかもしれないぞ?  捕手は、あくまでも女房役に徹して、好投の褒美を投手にやって、自分は夜フトンの中でニヤッと笑って自己満足していればいいのである。その意味ではコーチに似ていて日陰の商売である。だからこそコーチは捕手に「ごくろうさん」の声をかけ、正しい評価を下してやらねばならない。  さて、捕手はこういう大変な商売だが、もうひとつ大事な仕事がある。それは、いくら好投するも打たれるも投手の責任とはいいながら、いったん相手打者に対した時は、バッテリーの共同で討ち取り作戦に出なくてはいけない。その作戦は試合前のミーティングから始まる。  森はこの相手打者攻略の投手ミーティングで、コーチと高橋スコアラーを補佐する説明役をやっていた。コーチと高橋スコアラーがデータで説明するのを、森が実際にマスクをかぶった体験から補足した。下手だった喋り方もだんだんうまくなった。  また森はフォーメイション・プレーのキーマンをやっていた。彼の指先一本でON以下全員が守備陣形を敷くのである。V9巨人がアメリカの新戦法を次々に導入し定着化させていったうえで、森の力は実に大きかった。私のやりたかった作戦が成功したのは、八○パーセント彼の力に負っているといっていい。  V8、V9のころは、バント・シチュエーションでもピック・オフ・プレーでも、ほとんど森にまかせきりであった。彼はみごとにその重責を果たした。  みごとといえば、47年V8の年、盗塁世界新をひっさげて福本が出てきた阪急との日本シリーズである。  マスコミでは、弱肩森ではフリーパスだと書きたてたし、私自身、心配だった。福本の足封じに腐心して、さまざまな作戦をひねり出したが、森は森で敢然と福本に挑戦した。公式戦の優勝が決まったあと、毎日フリーバッティングの投手をかって出て投げ、そのあと二塁スローイングの練習を続けた。 「日本シリーズの満座の中でやられたのじゃ、メシの喰い上げですわ」  と、生活をかけて涙ぐましいまでの練習を繰り返し、投手の協力を仰いで目をぎらつかせて福本殺しに専念していた。  そして第一戦でみごとに殺した。二塁ベースの1メートル近くも前で殺した。福本はこの一刺で恐れをなして、以後の日本シリーズ4戦中、二度とスチールを試みなかったのである。  満座の中で恥をかかされてはメシの喰い上げになる、という瀬戸ぎわに立った時の森の粘りである。プライドも勝利への欲求もあっただろう、が、いちばん切実なことはこれだったのだ。  森に限らず、プロ野球選手で、金銭に淡泊なもので大成した選手は一人もいないのである。 〈了〉 あ と が き  ギリシャ神話に「ダモクレスの剣」というのがある。  ダモクレスはかねがね、王座にすわったならばさぞやいい気持ちであろうと思っていた。すわりたくて仕方がなかった。そしてある時、ついに王座にすわるチャンスを得た。  目の前には豪華なご馳走の山、かたわらには美女がはべって、この世のものとも思えぬすわり心地のよさである。  だが、ふと見上げたダモクレスの頭上には、髪の毛一本でつるされた鋭い刀が、いまにも落ちてきそうにさがっていた。  ——王者は、たえずこの「ダモクレスの剣」に脅かされているのである。  V9巨人は、この不安極まりない王座に、連続九年間もすわり続けた。ひと口に九年というが、これは実に大変なことなのだ。恐らく二度と破られることのない記録であるだろう。  幸運にも私は、この誇りやかな偉業達成に一員として参画できた。そしてV10がならなかった時、川上さんとともに巨人のユニフォームを脱いだ。  私はその直後、巨人生活十三年間の緊張が解けて一時、虚脱に近い状態に陥った。そして、間もなく、この歴史的なV9巨人の全貌を記録にとどめねばと思った。私がやらなくたっていい、誰がやったっていい。が、誰かがやらねばいけないと思った。  私は、川上さんに話した。川上さんは「是非やってくれ。後輩の人たちやプロ野球を発展させるためにも、忠実に事実を書いてくれ」といわれた。  そこで私は、机の中と頭の中をひっかき回し、V9巨人の組織、戦法、管理法から選手たちのエピソードまで、書ける限りの資料を集めて、巨人がどうやって王座につき、どうやって「ダモクレスの剣」の下を生き抜いてきたのかの全貌を「週刊文春」に連載した。  この本はそれをまとめ、若干の加筆をしたものである。V9という歴史的な出来事の中にいた生きた証人の証言であり回想録である。  だが、これは単なる回想録ではない。私の書いた一行一行の行間には、今年苦戦した長島巨人への深いいたわりと建言がにじんでいる。ともに戦い、ともに築いたV9戦士の一員として、新しい巨人に贈る再建の書でもあると思っている。  最後に、私の仕事を助けて下さった文藝春秋の方々に心からのお礼を述べたい。     一九七五年九月 牧野 茂   単行本 昭和五十年十月文藝春秋刊 文春ウェブ文庫版 巨人軍かく勝てり V9達成の秘密 二〇〇〇年七月二十日 第一版 二〇〇一年七月二十日 第三版 著 者 牧野 茂 発行人 堀江礼一 発行所 株式会社文藝春秋 東京都千代田区紀尾井町三─二三 郵便番号 一〇二─八〇〇八 電話 03─3265─1211 http://www.bunshunplaza.com (C) Takeyo Makino 2000 bb000750